天皇の意向を無視した
もうひとつ、日付を見比べてほしい。9月6日の御前会議で天皇は「外交を優先せよ」との意向を示し、10月には東条内閣に「白紙還元の御諚」が下った。山本が軍令部に承認を迫った9月24日と10月19日は、それぞれの直後にあたる。
これらの事実をどう評価するかは、論者によって分かれる。近年は、山本を単なる「開戦反対の悲劇の提督」とはみなさず、その開戦責任を問い直す研究も出ている。その一人である京都産業大学の松川克彦の評は手厳しい。
1カ月足らずの間に3度、山本は「硬軟取り混ぜて恫喝した」。天皇の意向は、山本の「耳にはいらなかった」――。
一方、通説の側は同じ事実を「開戦は国家が決めたこと。やるなら勝ち目のある作戦はこれしかない、という軍人としての結論だった」と読む。事実は一つであり、割れているのは、解釈だ。ただ、どちらの読みを採るにせよ、主君の一言で一度は立ち止まった東条英機との対照は、際立っている。
閣僚さえ知らなかった奇襲
山本の計画がどれほど「密室」で進んだかを示す場面がある。
開戦のほぼ1カ月前、1941年11月1日から翌未明まで続いた大本営政府連絡会議で賀屋興宣蔵相が、永野軍令部総長に食い下がった。アメリカ艦隊は、本当に日本へ攻めてくるのか。永野は「五分五分と思え」と突っぱねる。それでも賀屋は引かない。「米国が戦争をしかけて来る公算は少ないと判断する」。
このやり取りからも、閣僚である賀屋がこのとき1カ月後に奇襲するのは日本だということを知らなかったことが推測される。松川によれば、このとき海軍の作戦当事者の間ではすでに12月8日を想定した真珠湾攻撃の準備が進み、その日程は連合艦隊にも伝えられていた(開戦を最終確定する「新高山登レ一二〇八」の発信は12月2日である)。国家の命運を懸けた作戦が、閣僚の知らないところで既成事実になりつつあったのだ。
では、山本を突き動かした信念は何だったのか。及川海相宛の書簡で、山本自身が狙いを2つ挙げている。
ひとつは、奇襲でアメリカ国民の士気を「救うべからざる程度に沮喪させ」る。もうひとつは、太平洋艦隊を撃滅して、日本本土への空襲――「帝都其ノ他ノ大都市ヲ焼尽スルノ策」――を防ぐ。

