長期戦に「勝てる」とは言っていないが…
山本が艦隊に去ったあと、翌1940年9月、海軍を取り巻く環境は大きく変わる。及川古志郎海相は、同盟反対を貫けば近衛内閣を潰した責任を海軍が負うことになると説き、伏見宮軍令部総長の「ここまで来たら仕方がないね」という一言もあって、海軍は三国同盟の容認へ傾く。
開戦の見通しを問われたときの答えも有名だ。1940年、近衛文麿首相に日米戦争の見込みを問われた山本は、こう答えている。
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」
威勢のいい前半だけが独り歩きしがちな言葉だが、山本は長期戦には確信が持てないと最初からはっきり述べている。この時間感覚の背景には海軍の厳しい燃料事情があったとされている。
一部の研究者によれば、山本は米本土への攻撃を約束したことも、東太平洋へ打って出る構えを見せたこともなかった。少なくとも長期戦に「勝てる」とは、一度も言っていない。
ここまでは、通説どおりだが、問題は、ここからである。
真珠湾攻撃をゴリ押ししたワケ
ここから先は、防衛庁戦史室の史料や関係者の証言で裏付けられた事実になる。通説の側も否定していない。英雄譚では、あまり強調されてこなかったというだけである。
1941年1月初め、日米関係が緊張を深めるなか、山本は及川海相への私的書簡で真珠湾奇襲を提案する。敵艦隊を近海で迎え撃つという日露戦争以来の伝統戦略「邀撃作戦」を、根本からひっくり返す提案だった。
1月下旬には側近に非公式に具体案の作成を命じ、4月に計画を軍令部へ手渡す。だが審議されず放置された。8月、山本は側近を軍令部に送り込んで採用を迫る。
そして9月24日、軍令部に通告が届く。山本長官は「職を賭して」もこの作戦を決行する決意である――10月19日にも再び「職を賭ける」と伝え、空母6隻の全力投入が認められなければ連合艦隊司令長官を辞めると迫った。
永野修身軍令部総長は2度とも「それほどまでに固い決意なら」と折れている。現場の機動部隊からも異議が出て、大西瀧治郎・草鹿龍之介の両参謀長が翻意を促しに来たが、山本は逆に説き伏せた。「真珠湾攻撃は僕の固い信念である」「僕の計画を実現するよう努力してくれたまえ」と肩を叩いたという。
当時の軍令部員たちの回想も残っている。「海軍には大戦略がなかった」。だから「山本さんのただ一押し、御一存で戦争が進んだ」。総長も次長も参謀も「山本に頭が上がらなかった」。

