「ただの鉄」で戦わされた絶望感
「二年ぶりで、集団の革と汗くさい仲間から離れた。汽車の座席という忘れていたものにすわって、私は旅をする人のような気分になっていた。
(これで、コウモリ傘がさせればいつ死んでもいい)
と、思ったりした。そのことと畳の上で寝たいということとが、私にとって空想的な願望になっていた」
現実はどうだったでしょうか。司馬さんは戦車隊下級士官でした。
ノモンハンの対ソ戦の惨敗にもかかわらず、わが国の戦車はきわめて劣弱でした。司馬さんの部隊に新たに配備された中戦車にいたっては、装甲板がヤスリでこすると傷がつく「ただの鉄」でした。実戦での戦闘能力はおそらくなかったでしょう。絶望感が、後年の司馬さんにこう書かせています。
「私にとって戦車という機械は昭和十年代の日本国そのものであった」
佐野の町角で遊ぶ子供たちを見て、この子たちのためなら死ねるかな、と司馬さんが思ったところで、それは理想主義者の夢想だったのかもしれません。
戦後の人生は「余生」のようなもの
大本営から派遣された将校は、北関東に駐留していた司馬さんらの戦車隊が南下するさい、北上する避難民のために進路を妨害された場合、
「轢っ殺してゆけ」
とだけいった。
「日本国民を守るために存在する軍隊が、戦争遂行のために日本国民を殺してもかまわない」と考えるのが、この時代の「戦争」でした。非情さを知ることで、青年司馬遼太郎の屈折は深まったのではないでしょうか。
彼が昭和39年7月に行った「死について考えたこと」という講演の記録が残っています。その中に彼が尊敬していた海音寺潮五郎さんと生死の問題について話をしたことが紹介されています。
司馬さんはこういいます。
「『僕はいつ死んだって構わないんです。いますぐこの瞬間に死んでも構わないと、ときどき考えます。そういう癖があって、なんとなく死んでも大丈夫な感じがあるんです』
すると海音寺さんは、
『それはノイローゼでしょう』
と言う。
『ノイローゼではなくて癖なんです。いまの瞬間死んでも家のことはできているし、悲しくもない。死ぬことをよく考えるんですよ。一カ月に十二、三回も考えます。だから大丈夫です』
と言いますと、海音寺さん、
『そうですかね』
それから海音寺さんは話題を変えられました」
私には司馬さんの死に対する考えが全部ではないがわかる気がします。戦後の人生について、司馬さんは「余生」という言葉を使ったことがあります。いつもいつもそう思っていたわけではないでしょうが、私もその言葉に共感できる思いはあります。

