実体験に基づく小説を書いてほしかった
だとしたら、彼の作家活動は、彼がダメだと痛感した日本・日本人の時代を描くことが宿命だったのではないか。彼の小説群には、他の作家たちが戦後、自らの体験などを踏まえて書いたような、日本の愚かさ、日本の悲惨さを描いた小説はありません。エッセーや論文や、講演や対談はあったにせよ、私は小説を読みたかった。
日露戦争あるいは明治日本を子規・秋山兄弟を主人公にして描いた『坂の上の雲』のように、ノモンハンや太平洋戦争を書いた小説を読み、その時代の日本を読者として受け止めてみたかったわけです。みなさんも、同じような気持ちを持っておられるのではないでしょうか。
とはいえ、小説はありません。
エッセー、講演その他で、昭和初期から敗戦までの20年間の日本を司馬さんがどうとらえていたのか、考えるしかありません。
「何のために死ぬのか」考えた日々
彼は昭和18年9月、学生の徴兵猶予停止が決まったニュースを聞いたときのことを「足跡 自伝的断章集成」で書いています。『司馬遼太郎全集32』の年譜に付いている、インタビューというか、司馬さんのひとり語りですね。
「おもわず『しめたっ』といったら、親父が変な顔をして、『おまえ、兵隊が好きか』って実にバカにしていった。もとより兵隊は大嫌いなんですけど、それより学校のほうがいやでたまらなかったからなんです。
ところが、いざ兵隊にゆくとなると、『国家』というものに対してどうにもならぬ懐疑心がわいてきた。『国家』には果たして人民に『死』を命ずる権利があるのか、あるとすれば誰が与えたのか、何のために死なねばならないのか……。死そのものについても頭が変になるほど考えて、『歎異鈔』を読むかと思えば(中略)結局、自分は何のために死ぬのか、全然わからなかったのですが、終戦直前のころ、内地に帰ってきて、栃木県佐野の町角に遊んでいる子供たちを見て、『ああ、この子らを守るために死ぬのかな』などと思ったりして(後略)」
司馬遼太郎は明るい男でした。
どんなときにも希望を失わない青年だったろう、と後年の司馬さんを知る者としては、想像します。しかし、時代に押しつぶされそうになっている青年の一人でもありました。
満州から新潟に戻り、群馬県の相馬ヶ原に向かう途中、客車に乗ったときのことを、司馬さんは「私の関東地図」で書いています。
