「天下一の美人」を巡る争奪戦は作り話
そもそも勝家と秀吉がお市をめぐって争っていたという話は、慶長年間(1596〜1615)に成立した『祖父物語』に載っており、NHK大河ドラマなどはこれを元にしていたようだ。
ただし「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史家の黒田基樹氏は、「(祖父物語は)文中の表記内容などから、江戸時代中期くらいの成立と考えられる」と述べており、そうだとすると後世の作り話の可能性も高くなる。
ともあれ、『祖父物語』を引用すると――
信長公の御妹お市御料人のいはれなりとも申す也淀殿ノ御母儀也
近江の国浅井が妻なりける(中略)天下一の美人の聞こえありければ太閤御望をかけられしに柴田岐阜へ参り三七殿(織田信孝)へ心を合わせ市御料を迎え取り己が妻とす
太閤このよし聞召柴田を越前へ帰すまじとて江州長浜へ出陣あり
要約するとお市は「天下一の美人」であり、太閤(秀吉)が「御望」だった(欲しがっていた)が、柴田勝家が岐阜城にいる信孝と協力しお市を妻とした。太閤はこれを聞くと柴田を「越前に帰すまじ」と長浜城へ出陣した――となる。
前述の黒田氏はこの他にも、前田利家の近臣の覚書に似た話が登場すると指摘している。すなわち――
秀吉と勝家はともにお市の方に想いを寄せていたが、織田信雄と織田信孝との間で(家督相続を巡って)主導権争いがあり、信孝が「秀吉にはすでに妻がいる。お市の方を侍女にするつもりか」と秀吉の申し出を退け、勝家には妻がいないうえに若い時期から織田家に忠功をはたらいているゆえ、お市も信孝を支持して勝家と結婚した――と、記されているという。
パワーバランスを取るための政略結婚
欲望丸出しの秀吉を尻目に、信孝と共謀した勝家がお市を奪ったなら、それはそれで痛快な話だろう。
だが安易に信じて良いだろうか? そもそも戦国時代の権力者(秀吉)の下心や邪心などが記録に残っているだろうか?
そもそも戦国の婚姻は政略である。黒田基樹氏は、その政略という視点で勝家とお市の結婚を分析し、次のように述べている。
推測するしかないが(中略)清須会議は実際には、勝家・秀吉・惟住(丹羽)長秀の有力三家老による協議であった。そのうち秀吉は、信長五男の秀勝を養嗣子としており、惟住長秀は、信長の庶兄・信広の娘を妻としており、また嫡男長重は信長娘(五女か)の報恩院殿と結婚していた、というように、ともに織田一族との婚姻関係を有していた。対して勝家のみ、織田家一族との婚姻関係を有していなかった。(中略)協議で勝家との結婚が取り決められたのだから、お市の方に否やをいう権利はなかったといわざるを得ない。とはいえ勝家は家老筆頭の立場にあったことからすると、話としては悪いものではなかったといえる(『お市の方の生涯』朝日新書)
織田重鎮たちの間のパワーバランスを取るため、合意のうえで成立した政略結婚――そのように捉えた説は、納得できると思う。

