決定事項を守ろうとした勝家

こうして見ると、柴田勝家は私欲もあまりなく極めて実直な態度で清須会議に臨み、会議の決定事項も真摯に遵守しようとした人物に思える。

その姿勢は前述の『南行雑録』の覚書にも滲み出ている。例えば、

・清須会議で新たに長浜を所領したが、それ以外は一粒一銭もしていない。何とかしてほしいと頼んでくる者たち(おそらく秀吉の所領が増えたことに対し不満を持った人々と思われる)の声も聞き入れていない。それなのに、その態度を「あまりに勝手」となげいているが、私は汚い策動はしない。

・いまなお、織田には四方に敵がいる。織田陣営の者どもは内輪の争いをやめ、そのための軍事行動などせず、敵にあたることを本筋とすべき。

書面というのは「正義は我にある」と強く訴求する場合も多いので、ここまで清廉潔白だったと断言はできないが、少なくとも「鬼柴田」の異名を持つ猛将のイメージだけでは語れない素顔をうかがわせる。

忠義に厚く、生真面目――勝家とは、そういう男だったのではないか。

新体制はすぐに崩れ去った

清須会議を経て動き始めた新体制は、すぐに綻びを見せた。まず滝川一益の存在が問題となった。清須会議に参加できず、蚊帳の外に置かれた滝川は勝家と信孝に接近し、秀吉と対立することになる。

次に信孝と異母兄の信雄の関係が悪化すると、信雄は秀吉に接近し、ここに信孝―勝家―滝川vs.信雄―秀吉の対立が生まれ、織田はふたつに割れた。清須会議から4カ月後のことだった。

そして秀吉は天正10年12月、信孝の岐阜城を攻め降伏させる(のちに再び対立)。秀吉と勝家の直接対決も、もはや時間の問題となった。

本能寺の変から1年にも満たない天正11(1583)年4月20日、秀吉と勝家は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で激突した。前田利家など柴田方の有力武将が戦線を離脱したこともあり、勝家は北ノ庄城(福井県福井市)に敗走し4月24日、同城で自刃する。お市も命を絶った。

北ノ庄城で暮らしていたお市と勝家を、大河ドラマなどは仲睦まじい夫婦として描く。しかし、実際にふたりがどのような間柄だったかを伝える史料はない。お市の足跡として残っているのは天正10年9月11日、信長の妹として、また織田筆頭家老・勝家の妻として信長の百日忌法要を京で開催したくらいだ。秀吉が信長の葬儀を行う前の出来事だった。

『絵本豊臣勲功記』に描かれた、北ノ庄城で過ごす勝家とお市。出典=国文学研究資料館/国書データベース
『絵本豊臣勲功記』に描かれた、北ノ庄城で過ごす勝家とお市。出典=国文学研究資料館/国書データベース

一方、秀吉が軍事行動を活発化させた天正10年末頃からの消息はわからない。何しろ夫の勝家でさえ、冬季は雪が障害となって北ノ庄城から動けなかった。