「書札礼」でわかる、藤孝の当時の地位
それを解く手がかりが、小久保嘉紀「室町幕府・織田政権における細川藤孝の地位――書札礼を中心に――」(『織豊期研究』19号)である。そもそも、細川藤孝とはどういう大名だと思われているだろうか。
細川といえば足利将軍家を支えた管領家の一門であり、江戸時代には肥後熊本54万石の大大名として続いた家である。近年では子孫の細川護熙が内閣総理大臣にまでなっている。この経歴だけを並べると、藤孝自身も戦国の当初から独立した実力を備えた、揺るぎない大名だったように見えてしまう。
だが、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)の時点で、藤孝が置かれていた立場は、そこまで単純なものではない。丹後を任されてはいるが、それは信長から与えられた与力としての配置であって、代々の所領を自力で切り取ってきた戦国大名の版図とは性格が異なる。細川という名門の看板を背負ってはいても、その看板の実質……誰に対してどのような権限を持ち、誰に対して頭を下げる立場にあったのかは、必ずしも自明ではない。
小久保は、その地位を「書札礼」を中心として、明らかにしている。「書札礼」とは、書状を出す際に守るべき礼式、つまり誰が誰に対してどんな敬語・書式を使うかを定めたルールのことだ。差出人と宛先の関係によって、書き出しの言葉遣いから宛名の書き方まで、事細かに使い分けが決まっている。
大大名・島津義久が“下手に出た”形跡
たとえば、目上の相手に直接出すのではなく、その側近を宛先にして間接的に伝える「進上」形式を取るか、それとも対等に近い相手として直接「謹上」で出すか。文末を「恐惶謹言」で締めるか、もう一段軽い「恐々謹言」で済ませるか。こうした細部の使い分けは、当人同士の感情とは無関係に、当時の身分秩序・力関係をそのまま映し出す。
つまり書札礼は、本人がどう思っていたかではなく、周囲からどう位置づけられていたかを教えてくれる史料なのだ。手紙の中身がどれだけ親密な調子であっても、宛名の書式一つで、両者の間にあった格の差は隠しようがない。
小久保が注目するのは、藤孝が薩摩の島津義久に宛てた書状だ。ここで藤孝は、「進上」「恐々謹言」といった、本来は目上の相手に使う丁寧な書式を用いている。
驚くのはここからだ。この手紙を受け取った島津義久は、わざわざ家臣の喜入季久という使者を立てて、太刀や馬といった進物まで添え、丁重な返礼状を藤孝個人に送っているのである。
九州にその名を轟かせた大大名が、一介の織田家臣にすぎない藤孝を相手に、まるで対等な交渉相手であるかのように贈り物までして丁重に応対する。これはおかしな話だ。藤孝はしょせん、身分でいえば島津義久に遠く及ばない立場でしかない。それなのに、なぜ義久はここまで下手に出たのか。
答えは単純だ。これは藤孝個人が偉いから使える書式ではない。

