「書札礼」でわかる、藤孝の当時の地位

それを解く手がかりが、小久保嘉紀「室町幕府・織田政権における細川藤孝の地位――書札礼を中心に――」(『織豊期研究』19号)である。そもそも、細川藤孝とはどういう大名だと思われているだろうか。

以心崇伝賛「絹本着色細川幽斎像」
以心崇伝賛「絹本着色細川幽斎像」(写真=天授庵所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

細川といえば足利将軍家を支えた管領家の一門であり、江戸時代には肥後熊本54万石の大大名として続いた家である。近年では子孫の細川護熙が内閣総理大臣にまでなっている。この経歴だけを並べると、藤孝自身も戦国の当初から独立した実力を備えた、揺るぎない大名だったように見えてしまう。

だが、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)の時点で、藤孝が置かれていた立場は、そこまで単純なものではない。丹後を任されてはいるが、それは信長から与えられた与力としての配置であって、代々の所領を自力で切り取ってきた戦国大名の版図とは性格が異なる。細川という名門の看板を背負ってはいても、その看板の実質……誰に対してどのような権限を持ち、誰に対して頭を下げる立場にあったのかは、必ずしも自明ではない。