将軍の権威を“お裾分け”されていた
論文によれば、この書状は藤孝が自分の意志だけで島津義久に送ったものではない。将軍・足利義昭が島津義久に宛てて出した「御内書」……多くの場合、将軍直々の命令書とセットになっている手紙なのだ。
この点を、小久保は「室町幕府の藤孝の書札礼としては、御内書に副状を付す将軍側近の立場により、大名権力から藤孝に対して通例の御供衆宛て以上の書札礼が用いられていた」と解説している。
将軍の御内書だけをポンと送りつけても、受け取った側は「これは本当に将軍様のお言葉なのか、間違いないのか」と不安になる。そこで、御内書に付き添う形で、側近の藤孝が「この御内書は間違いなく将軍様のご意志です。私が責任を持ってお届けします」という念押しの手紙を、同封する形で書き添えるのである。この念押しの手紙のことを「副状」という。
つまり藤孝は、将軍の手紙の「保証人」として、島津義久に手紙を出しているのだ。
保証人の立場である以上、藤孝は将軍本人ではないが、将軍の代理として振る舞う必要がある。だからこそ、本来なら一介の家臣が九州の大大名に使えるはずのない、目上への丁寧な書式を使うことができた。将軍の権威を、いわば「お裾分け」してもらっている状態なのである。
いつの間にか“丁寧に扱われる”ように…
この「お裾分け」の構図は、逆方向からも裏付けられる。同じ論文が並べているのが、関東の雄・後北条氏政が藤孝に宛てた書状だ。妙な話である。関東に覇を唱えた大大名・氏政が、なぜわざわざ一介の織田家臣にすぎない藤孝に対して、「進上」というへりくだった書式を使っているのか。
理由は同じだ。氏政が本当に届けたい相手は藤孝ではなく、その先にいる将軍義昭である。藤孝はあくまで将軍への窓口にすぎない。だが、将軍への窓口である以上、その窓口自体にも礼を尽くしておく必要がある。藤孝が島津に対して厚礼を使うときも、氏政が藤孝に対して厚礼を使うときも、動いているのはまったく同じ原理なのだ。
ところが、話はここで終わらない。お裾分けのはずの権威が、いつしか藤孝自身の実力であるかのように扱われ始めるのだ。将軍の代理として振る舞い続けるうち、周囲の大名たちの側も、藤孝を「将軍に繋がる重要人物」として、丁重に扱わざるを得なくなっていく。窓口係が、いつのまにか窓口そのものの顔で扱われるようになる、という現象である。
いわば、現代でも国会議員の秘書なんかが、やたらと偉そうにしているのと同じだ。単なる事務の窓口にすぎないのに、勝手に権威ができあがっていく……藤孝の権威とは、そんなハリボテのようなものだったわけだ。

