信長の家臣になっても“格上”だった

では、信長に臣従してからはどうだったのか。

将軍義昭がいなくなれば、藤孝の「窓口特権」も消滅するはずだ。取次役という肩書きの中身がなくなるのだから、当然その権威も消える……はずなのに、そうはならない。ハリボテだったはずの権威が、しぶとく生き延びるのである。

ここで小久保は1581年と推定される、長岡(細川)藤孝・羽柴秀吉・明智光秀の三名が連署した文書を分析している。連署状というのは、本来、地位の低い者から順に署名していくのが通例である。ところが、この文書では藤孝が秀吉より上位に署名されている。

信長に臣従してからまだそれほど年月が経っていない時期でありながら、藤孝の家格(生家は将軍近侍の奉公衆系の家柄とされ、信長政権下では御供衆相当として遇されていたとみられる)は、依然として一定の重みを持って扱われていたことがわかる。将軍がいなくなっても、その「格」の記憶は、書式の中に生き続けていたわけだ。

丹後を任され、光秀の与力という立場に置かれてからも、藤孝が光秀より上位に置かれているケースが確認できる。行政上は光秀の指揮下に組み込まれた与力でありながら、書式の世界では、必ずしも単純な「上司と部下」の関係には収まっていない。

つまり、天正10年当時の藤孝の「格」は、藤孝がどれだけ強いか、光秀とどちらが実力で勝っているかといった話とは関係なかった。「かつて足利将軍家に仕えていた家柄である」という、いわば昔取った杵柄によって決まっていたのである。虎の威を借る狐として地位を保っていた。しかも、その虎は足利将軍家から信長へと、乗り換えられている状態だった。

“本能寺”で崩れた「一番強い人につく」戦略

そもそも細川家といえば、管領を輩出してきた名門。応仁の乱では東西二大勢力の一方を担った大大名。その後も代々の当主が様々な形で歴史の表舞台に登場する……そんなイメージを持たれがちだ。

だが、それは大間違いである。細川、というより藤孝という男の本質は、自前の実力で勢力を築くことではない。常にその時々でもっとも強そうな相手に寄生し、その威光を借りることで自分の立場を保ち続ける。それが藤孝という人物の一貫した生存戦略だったのだ。

だから、本能寺の変が起きた瞬間、藤孝は立ち止まった。

錦絵 本能寺焼討之図
錦絵 本能寺焼討之図(写真=楊斎延一画/名古屋市所蔵/ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これまで彼がやってきたことは、常に「今、一番強いのは誰か」を見極めて、その懐に潜り込むことだった。足利将軍家にまだ権威があった時は将軍家に。信長が強くなれば信長に。判断基準は常に、外側にある「今の勝ち馬」だった。

ところが本能寺の変は、その勝ち馬そのものを一瞬で消し去ってしまった。光秀が新しい勝ち馬になるのか。それとも、信長の後継者を名乗る誰かが勝つのか。まだ何も決まっていない、空白の時間が生まれた。