嫡男・長重の没落と御家再興
長秀の嫡男・丹羽加賀守長重は信長の五女と結婚し、二重の婚姻関係を結んでいる。いかに長秀が信長から気に入られていたかを示すものだろう。ちなみに、信長の娘と長重の婚姻は、生前の信長が天正8(1580)年に指示し、本能寺の変後の天正10(1582)年7月に羽柴秀吉の介添えによって輿入れされたという。
長秀は晩年に越前と加賀能美・江沼の二郡123万石を領したが、嫡男・長重が13歳で跡を継ぐと、秀吉にいろいろと難癖をつけられ、最終的には加賀小松12万石に減らされてしまった。さらに、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、長重は北陸の地で前田利長と合戦に及ぶも私闘とみなされ、領地を没収されてしまう。
領地を失った長重であったが、苦境を救ってくれる友人がいた。二代将軍・徳川秀忠である。秀忠は家康に何度も訴えて長重を常陸古渡1万石に復帰させた。その後、長重は大坂夏の陣で武功を挙げて3万石に加増され、秀忠の時代になると何だかんだで陸奥白河藩10万700石に加増されている。持つべきものは友人である。さらに長重の子の代に陸奥二本松藩に移り、子孫は代々二本松藩を治めた。戊辰戦争での死闘は有名であるが、確かに徳川家の恩義を考えれば、それくらいがんばってもしょうがない気がする。



