なぜ那古野譜代ばかりが改姓したのか
意外に忘れられているが、秀吉が羽柴を名乗った後、長秀は惟住姓に改姓させられている。天正3(1575)年7月、信長は「主立った家臣を任官させることを願い出、勅許を受ける」。研究者の谷口克広氏によれば、その時のメンバーは、松井友閑、武井夕庵、明智光秀、簗田広正、丹羽長秀、村井貞勝、塙直政、羽柴秀吉だという(『信長軍の司令官』)。
この8人を苗字、官途のいずれを与えられたかで分類すると、明智光秀、簗田広正、丹羽長秀、塙直政の4人が苗字を与えられており、うち3人までが「那古野譜代」の旗本選抜組なのである。
ではなぜ、当時、織田家臣団の事実上のナンバーワン、2だった柴田勝家、佐久間信盛は新たな苗字を賜る栄誉に浴しなかったのか。それは、おそらく柴田や佐久間という苗字が、地元尾張でネームバリューのあるブランドだったからではないか。
換言するなら、丹羽、簗田、塙は、かれらの地元でもたいした家系でなかったから、改姓しても支障がないと信長は判断したのだろう。そのように考えると、明智光秀も名門の出身ではない可能性が高い。
安土城の普請奉行として活躍
ここで改めて、丹羽長秀の略歴について述べておこう。丹羽五郎左衛門長秀(1535~1585)は、尾張国春日井郡児玉村(名古屋市西区児玉町)に生まれ、信長の近臣として15歳から仕えた。永禄8(1565)年頃の犬山城攻略で重臣・和田新介、中島豊後守の調略に成功。次いで、東美濃でも加治田城主調略、および猿啄城、堂洞城攻略に功績があった。
元亀元(1570)年以降、木下藤吉郎秀吉とともに近江浅井家攻めを担った。佐和山城を囲んで、翌元亀2年の城主・磯野員昌の投降に功あり、そのまま佐和山城主に登用される。
浅井・朝倉滅亡後は若狭(福井県南西部)支配を任され、天正3(1575)年信長から、惟住に改姓するように命じられる。信長上洛後は畿内の行政にも携わり、天正4(1576)年に安土城築城がはじめられると、その普請奉行を命ぜられている。
天正10(1582)年5月に織田信孝(信長三男)の四国遠征に附けられるが、翌6月の本能寺の変で遠征軍が崩壊。秀吉の軍勢とともに山崎の合戦で明智光秀を破った。清須会議で秀吉を支持し、若狭の他に近江高島・志賀(滋賀県湖西部)の二郡を得た。
翌天正11年の賤ヶ岳の合戦では、当初から一貫して秀吉方を支持し、琵琶湖の制海権を握って後方支援や前線で活躍した。そして、越前(福井県東部)と加賀能美・江沼の二郡を得て、計123万石を領した。



