NHK「豊臣兄弟!」は、ついに本能寺の変を描いた。史実では、織田信長が家督を譲り、安土城を完成させた嫡男・信忠も命を落とした。信忠は、どのような人物だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に信忠の人物像に迫る――。
「大日本名将鑑」より『織田右大臣平信長』
「大日本名将鑑」より『織田右大臣平信長』(写真=ロサンゼルス郡立美術館/Images from LACMA uploaded by Fæ/Wikimedia Commons

“優れた後継者”だった織田信忠

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。ついに、前半のクライマックスである本能寺の変が描かれた。物語を振り返れば、信長(小栗旬)は嫡男・信忠(小関裕太)に家督を譲り、安土に天下一統を見据えた巨大な城を完成させた。だが、その父を継ぐはずだった信忠もまた、本能寺の変を機に、歴史の舞台から姿を消すことになった。

信忠を演じる小関は、小芝風花との真剣交際も話題になっているイケメン俳優。ゆえに演じる小関には注目は集まるが、史実の信忠の人気はイマイチ。人気というよりは、そもそも存在感が薄い。あの信長の息子ということは、天下人の後継者である。

なのに世間における信忠は「本能寺の変の時に、父と一緒に死んだ息子」くらいにしか思われていない。そもそも、変の前に信忠は家督を譲られて当主となっていたことまで知っているのは、限られた歴史愛好者くらいではなかろうか。

豊臣秀頼には大坂の陣という見せ場がある。徳川秀忠もかつては関ヶ原の戦いに遅参した凡庸な二代目みたいなイメージだったが、近年は幕府の土台をつくった人物として再評価されている。

しかし、信忠には見せ場がない。どうも、偉大すぎる父の脇に控えていた愚息扱いである。でも、史実を検証してみると信忠は「さすがは、信長の後継者」という優れた面が明らかになってくるのだ。

“実戦投入”で鍛えられた

『寛政重修諸家譜』によれば、信忠は1557年に生駒家宗の娘を母として生まれたとしている。その後『信長公記』の記録から、1573年頃に元服し(呼称が「奇妙丸」から「勘九郎」に変更)、浅井攻めに加わったことが見て取れる。

その後、信長に従って従軍していた信忠だが、父のお付きというわけではなく、早期から独自の軍団を形成していたことが谷口克広「織田信忠軍団の形成と発展」(『日本歴史』419)などによって、明らかにされている。

これによれば、信忠は1574年に信長から尾張の支配者の地位を与えられ、以降徐々に支配権の移譲が進んでいる。1575年には、尾張・美濃の知行安堵・宛行権も信忠のものとなり、その地位は確立した。

こうして形成された軍団は、嫡男にあてがわれたお飾りではなかった。その初期の目的は武田の攻勢を止めることであり、積極的に出陣している。信忠麾下に池田恒興をはじめとする重臣が置かれたのも、こうした実働部隊としての目的があったためであろう。