“佐久間信盛の追放”で軍団が拡大
この軍団が拡大する契機となったのが、佐久間信盛ら重臣の追放によってであった、と谷口は分析している。この古参家臣の追放により、信忠の尾張支配はより強固なものとなり、軍団はさらに発展をみるのである。とりわけ、この軍団が大きな活躍を見せたのは、甲州征伐である。
『信長公記』は「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるるの事」という章を設けて、その顛末を語っている。
しかし、重要なのはここではない。谷口は、甲州征伐は滝川一益を除いては、信忠軍団で構成されていたことを指摘する。さらに、これ以降、信忠は甲斐・信濃まで包括した地域に影響力を及ぼすまでに膨れあがったのだ。この信忠主導による軍事行動に対して、谷口は次のような評価を下している。
官位が語る、確立された“後継者の地位”
嫡男として後を継がせるには、かなりのスパルタである。
しかし、信長にはそうしなければならない理由があった。それは、朝廷との関係性である。渡辺江美子「織田信忠考」(『日本歴史』440)では、1578年4月に信長が、朝廷より与えられた右大臣兼近衛大将を辞したことに着目している。ここで渡辺は、信長の辞官の奏達状に、信忠への「顕職譲与」の字があることに着目する。渡辺は、朝廷がすぐに信長の辞した官職を信忠に与えるとは考えられないが、信長に倣って昇進させることを求める意図があったとしている。
さらに、渡辺は、信長が辞官を願い出たのは4月9日。その数日前より、信忠は大坂で本願寺に対して軍事行動を行い、各所に降伏勧告の札を立てて8日に京都に戻ったことに着目し、これ自体が朝廷への示威ではなかったのかと見ている。
しかしこの後、朝廷は、信長の地位をそのまま与えるのをよしとせず、信忠は従三位左中将にとどまったままとなった。渡辺は、これを信長と朝廷の間になにか軋轢があったのではとする。だが、朝廷としても高い官位を与えるには功績が足りないと見ていたのではなかろうか。それゆえに、甲州征伐は、いわば東国の平定であり、いよいよ信忠が信長と同じ官職をえるための実績となったというわけである。
このように、本能寺の変以前には、信忠は、信長になにかがあってもすぐに権限を受け継ぐことのできる次期当主としての地位を確立していたといえるだろう。

