親王らを逃がしたあとに切腹
しかし、そうはならなかった。
『信長公記』の記述に基づけば、本能寺の変当日の信忠の動きはこうだ。
救援に向かおうとする→京都所司代・村井春長軒らが既に本能寺は落ちたことを伝え、二条新御所に向かうべきと進言→移動し、誠仁親王らを逃がす→切腹
親王らを逃がした後は、早々に切腹を決断している。その間、家臣らは外で明智光秀の軍勢と戦ってことごとく討ち死にしている(切腹の間の時間稼ぎ)。どうみても、判断が早すぎる。
つまり、謀反は明智光秀によるものと知った信忠は「か様の謀叛によものがし候はじ。雑兵の手にかゝり候ては後難無念なり」すなわち、これだけの謀反を企てた男だから逃げ道は塞がれている、雑兵に討たれては末代までの恥だと直ちに腹を斬っている。『信長公記』の記述からは「お前は見たんか?」とも思うが、首が見つからなかったことを考えると、すぐに切腹することを決めたともいえる。
“逃げる”選択肢はあったが…
なんで、こんな早急な判断をしてしまったのか。現代の視点では「いや、もうちょっと逃げるとか、粘れよ」と思ってしまう。
実際に、織田有楽斎は脱出に成功している。『当代記』などの記述をみると、明智勢の封鎖も完璧というわけではなく逃げ道はいくらでもあったはずだ。信忠のやったことは、王手を掛けられた途端に「参りました」といきなり投了してしまったようなものだ。
実際、和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』(中央公論新社、2019年)もこの点に触れている。ここで和田は、1569年に足利義昭が三好軍に包囲されながらも持ち堪えた前例があることを挙げて、数日持ち堪えれば光秀軍を追い払えるという、わずかな勝算が信忠にもあったのかもしれないと指摘している。
さらには、こんな分析も記している。
実際に、光秀は信長を討つことに専念しており、京都の封鎖には到っていなかった。そのため、落ち延びることもできていただろうし、すぐに軍団を糾合して反撃することはできたはずだ。

