まずい、殺られる

カラマツ林が終わりかけ、90度のカーブを回り込むと、景色はトドマツ林へと移り変わる。その瞬間、前方のトドマツの先端近くに、枝とは違う黒い塊が見えた。

赤石は車を止め、双眼鏡を取り出す。

双眼鏡の中には、揺れる枝の上に小さなヒグマがいた。距離は150メートルほど。サイズも距離も射撃には申し分ない。

赤石は静かに車を降り、後部座席からライフルを取り出した。ヒグマは先端から5メートルほど下の枝にいて、こちらには気づいていない。マツボックリをむしっているようだった。

スコープを覗き、呼吸を整え、引き金を絞る。乾いた銃声とともに、ヒグマは木から転げ落ち、「ドサッ」と音を立ててクマザサの中に消えた。

ヒグマを仕留めた赤石さん
ヒグマを仕留めた赤石さん[出所=『羆撃ちに人生を賭けた男』(山と溪谷社)]

トドマツの下には、2メートルを超えるクマザサが密生している。その中へ銃を担いで分け入る。ヒグマがいた木は遠くないが、ササの密度が高く、思うように足が進まない。

赤石は銃を構えたまま、一歩一歩、慎重にササをかき分けていく。何度も足を取られながら進むこと5分、ようやく落下地点付近にたどり着いた――その刹那である。

「ウォーーッ!!」

突如、目の前、5メートルほどの所で、ヒグマの吠え声が炸裂した。

まずい。殺られる――さすがの赤石も総毛立った。

反射的に銃のボルトを引き、弾倉から薬室に弾を送り込む。

――親子連れだったか。

ヒグマからの「最後通告」

すぐに冷静さを取り戻した赤石は、さきほど撃ったのは子グマで、いま吠えているのは母グマだと瞬時に悟った。頭の中で、とっさに状況を整理する。

「バサッ、バサッ!」

ササを割って、何かがすごい勢いで突進してきた。その距離、2メートルまで迫った所で、それはピタリと止まった。生い茂る藪に視界を阻まれて、その姿は見えない。

だがその濃厚な気配から、赤石にはそれが母グマであることがわかった。

母グマはそれ以上、距離を詰めてくることはしない。

――ブラフチャージ。

多くのヒグマは、脅威を感じた相手に対して、いきなり攻撃を仕掛けることはしない。その前段階として、「実際には接触しないが、攻撃するかのように急接近して威嚇する行動」を行う。こうした行動をブラフチャージと呼び、ヒグマとしては「戦う」ことよりも、相手を「退かせる」ことを目的としている。

とはいえ、ブラフチャージは「最後通告」である。いつ本気の攻撃へと移行しても、まったく不思議ではない。そもそもブラフチャージで2メートルまで接近するというのは、異例のことであり、予断は許されない。

ササ藪の向こうからは、ヒグマの荒い呼吸だけが明確に聞こえる。

かなり興奮しているようだ。ここまで興奮してアドレナリンが全開状態になっていると、この至近距離で撃っても急所に当てない限り止まらない。むしろ逆上させるだけだ。

狩猟中、ヒグマに襲われる事故の多くは、ハンターが発砲したものの仕留めきれずに“手負い”にし、逆襲されるケースだ。興奮したヒグマは最後の力まで振り絞り、執念深く襲ってくる。