不治の病が様変わりした理由
白血病は急性と慢性、さらにリンパ性と骨髄性に分けられ、急性白血病は進行が早い。通常の健診では見つからず、貧血や発熱、出血傾向などの初期症状が出て白血球の異常が見つかれば直ちに入院して治療を受ける必要がある。慢性骨髄性白血病は健診で異常が見つかることがあるが、万一放置すると5~6年で急性転化する。
悪性リンパ腫は組織型によって進行速度が異なり、なかには週単位で悪化するものもある。多発性骨髄腫の初期症状は、骨折や貧血による動悸息切れなど。勘のいい医師なら健診や骨折時に見抜くこともあるが、現実にはもっと進行してから発覚することが多い。
いずれの血液がんも治療は化学療法が中心で、再発や難治例では造血幹細胞移植を行うことがある。ただ、移植しても成功するとは限らない。90年代、白血病の5年生存率は男女とも30%強に過ぎなかった。
その不治の病は様変わりした。
「慢性骨髄性白血病は2001年にチロシンキナーゼ阻害薬が登場して治療成績が一変。日本では飲み薬だけで約95%の患者さんが長期生存、つまり亡くならない病気になりました。また、急性骨髄性白血病はFLT3阻害薬、多発性骨髄腫はボルテゾミブやレナリミドなどの新薬が次々に登場し生命予後は改善されています」
ここにきてなぜ治る病気になってきたのか。河村はこう解説する。
「分子生物学の基礎研究が進み、分子標的薬が開発されたことが大きい。もちろん多くの疾患がその恩恵を受けています。ただ、血液がんは固形がんと比べて細胞がばらばらかつ比較的均一で、検体も採血で簡単に得られる。他のがんと比べると研究しやすく、基礎研究が進展した影響を最初に受けた分野の一つになりました」
「未来の患者」が困るから国内留学へ
医師にとって無知は罪。河村がそれを痛感したのは、研修医を終えてとりだい病院の血液内科に入ったときだった。当時は教授、准教授、そして河村の3人体制で、1年目からフル回転した。
「研修医のころまで、自分は最小限の努力で要領よく世の中を渡るタイプでした。でも血液内科に来たら、自分の知識量が患者さんの生死を左右する場面に直面して……。自ら勉強しなくてはいけないと強く思うようになりました」
ただ、当時の体制は必ずしも勉強に向いた環境ではなかった。以前はたびたび行われていた同種造血幹細胞移植は2年で1例だけ。新しい治療法どころか、すでにある治療の経験を積むことも難しかった。
ここで河村はいったん外に出る決断をする。移植で全国的に有名だった自治医科大学に移ったのだ。
「今診ている患者さんたちを残していくわけですから葛藤はありました。でも自分が成長して移植できるようにならないと未来の患者さんたちが困るし、次の世代の血液内科医を育てることもできない。単身赴任で家族にも迷惑をかけることになりますが、行かせてもらいました」
自治医大では移植の経験を積むだけでなく、博士課程に進んで臨床研究・基礎研究にも精を出した。研鑽を積んだうえで、20年、とりだい病院に9年ぶりに講師として復帰。当時の教授は血液内科の強化を打ち出しており、そのミッションは河村に託された。

