「いごっそう」だった父親
かつて厚生労働省の事務方トップである事務次官を務めた村木厚子さんは、最新刊『おどろきの刑事司法』(講談社現代新書)の中で、いわゆる「人質司法」によって164日間の長きにわたって勾留された壮絶な体験を赤裸々に綴っている。
なぜ村木さんは、先の見えない絶望的な状況に置かれながら精神の均衡を保つことができたのか? その答えは、村木さんの30代にあった。
高知県出身の村木さんは国家公務員試験に合格して、1978年、当時の労働省に入省するが、上京の際「どんなことがあっても仕事を続ける」という強い決意を抱いていた。
「私、自分のわがままで中・高一貫の私立校(土佐中学校・高等学校)に通わせてもらっていたのです。ところが中学2年のとき、突然、父親が失業してしまったんですよ」
土佐弁でいう典型的な「いごっそう」(気骨のある頑固者)だった父親は、当時勤めていた会社の社長と意見が合わないからと、いきなり会社を辞めてしまったのだ。当然、家計は苦しくなる。村木さんは公立中学に転校する覚悟を固めた。
「ところが父は、『どんなことがあっても通わせてやるから、土佐中をやめなくていい』と言ってくれたんです」
「仕事をやって家庭も持ったら褒めてあげる」
その後父親は、猛然と勉強をして社労士の資格を取得して独立。村木さん自身も中3の冬に郵便局で年賀状の仕分けのアルバイトをしたのを皮切りに、高校卒業まで長期休暇中はびっしりアルバイトをする生活を送り、高校と大学は奨学金を取って卒業した。
「何かになりたいというより、大学を卒業したら自分で食べて行けるようになることが親に対する最大の恩返しという気持ちがありました。そもそも、何のために学校に行かせてくれたのかといえば、勉学を活かして職業人として生きていくためだったわけですから、一生仕事を続けるのは当然のことだと思っていました」
ただし、上京する村木さんに対して、父親は単に仕事を続けよとは言わなかった。
「仕事をやって偉くなっても褒めてあげないけれど、仕事をやって家庭も持ったら褒めてあげる」
村木さんは2歳の時に実母を亡くしている。それから数年の間、父親は仕事をしながら男手ひとつで村木さんを育てた。父親の言葉の背後には、その時の厳しい生活体験があったのかもしれない。