娘が「小児てんかん」を発症
島根での1年半は「めちゃくちゃ楽しかった」と村木さんは振り返るが、1988年、32歳で本省の婦人局政策課の課長補佐に昇進すると、打って変わって、地獄のような日々が待ち受けていた。
1986年に施行された男女雇用機会均等法などを担当する、超多忙な部署である。保育所と保育ママの「ダブル保育」の態勢を取ったが、2つ目の課長補佐ポストに異動した矢先に、娘が小児てんかんを発症してしまった。幸い、成長とともに改善する良性の疾患だったが、寝入りばなに発作を起こすことが多く、夜8時には自宅に帰って添い寝をする必要があった。
「受診していた大学病院から、座薬を使っても3分間でけいれんが止まらなかったら救急車で連れてくるように言われていました。だから、寝る時には絶対そばにいなくてはならなかった。上司や部下にごめんなさい、ごめんなさいって謝りながら自分だけ早く帰るのは、本当に辛かった」
異動した直後で一刻も早く新しい仕事を覚えたかったが、圧倒的に時間がなかった。かといって子どもをひとりきりにはできないし、夫にも仕事がある。激しい葛藤を抱えて、村木さんは心身に変調をきたしてしまった。
「階段の踊り場とか、トイレの個室のように人目のない場所に行くと、自然に涙が出そうになるんです。これはマズイと思いました。就職して初めて、『仕事をやめなくてはならないかもしれない』と思い詰めました」
「どんなことがあっても仕事を続ける」という信念が崩れそうになったのは、後にも先にもこの時だけだった。
「私を責めていたのは私自身」
偶然、元バレーボール日本代表の三屋裕子さんの話を聞く機会があった。三屋さんは引退後、実業界に転じた経験があるが、その際、ある人物から「バレーボールだけやってた奴に何ができる?」といった趣旨の痛烈な批判を浴びせられたことがあるというのだ。
「悔しくて悔しくてたまらなかったそうですが、ある時、批判の言葉は1回しか聞いていないことに気づいたとおっしゃるんです。そのたった1回の批判を、心の中で何度も何度も反芻していたのは自分だ。自分で自分をいじめていたんだと……」
三屋さんの話を聞いた村木さんは、まさに自分が落ち込んでいた状況はこれだったのだと気づかされた。
「考えてみれば、職場で『迷惑だ』と責められたことは一度もなかったんです。責められていると思い込んでいただけ。私を責めていたのは私自身。敵は自分の中にいたんです」
それに気づいた瞬間、憑き物が落ちたように気が楽になった。
「悩んでも仕方のないことは悩むな、悩むなら生産的に悩め。いまは事情があって100%のパフォーマンスは出せないけれど、周囲に支えてもらった分はいつかお返しすればいいと。そう考え方を切り替えたら、その日から仕事がうまく回り始めました。『ここまではやったから後はお願いね』と、わだかまりなく周囲に頼めるようになったんです」