【連載 私の30代】30代は「正解なき決断」の連続だ。元厚生労働省の事務次官で現在は全国社会福祉協議会会長の村木厚子さん(70歳)は、30代の頃、仕事と子育ての両立において激しい葛藤を抱えた時期があった。そのときの決断は、人生にどんな影響を与えたのか。ノンフィクションライターの山田清機さんが取材した――。
元厚生労働省事務次官で、現在は全国社会福祉協議会会長の村木厚子さん
撮影=今村拓馬
元厚生労働省事務次官で、現在は全国社会福祉協議会会長の村木厚子さん

「いごっそう」だった父親

かつて厚生労働省の事務方トップである事務次官を務めた村木厚子さんは、最新刊『おどろきの刑事司法』(講談社現代新書)の中で、いわゆる「人質司法」によって164日間の長きにわたって勾留された壮絶な体験を赤裸々に綴っている。

なぜ村木さんは、先の見えない絶望的な状況に置かれながら精神の均衡を保つことができたのか? その答えは、村木さんの30代にあった。

高知県出身の村木さんは国家公務員試験に合格して、1978年、当時の労働省に入省するが、上京の際「どんなことがあっても仕事を続ける」という強い決意を抱いていた。

「私、自分のわがままで中・高一貫の私立校(土佐中学校・高等学校)に通わせてもらっていたのです。ところが中学2年のとき、突然、父親が失業してしまったんですよ」

土佐弁でいう典型的な「いごっそう」(気骨のある頑固者)だった父親は、当時勤めていた会社の社長と意見が合わないからと、いきなり会社を辞めてしまったのだ。当然、家計は苦しくなる。村木さんは公立中学に転校する覚悟を固めた。

「ところが父は、『どんなことがあっても通わせてやるから、土佐中をやめなくていい』と言ってくれたんです」

「仕事をやって家庭も持ったら褒めてあげる」

その後父親は、猛然と勉強をして社労士の資格を取得して独立。村木さん自身も中3の冬に郵便局で年賀状の仕分けのアルバイトをしたのを皮切りに、高校卒業まで長期休暇中はびっしりアルバイトをする生活を送り、高校と大学は奨学金を取って卒業した。

「何かになりたいというより、大学を卒業したら自分で食べて行けるようになることが親に対する最大の恩返しという気持ちがありました。そもそも、何のために学校に行かせてくれたのかといえば、勉学を活かして職業人として生きていくためだったわけですから、一生仕事を続けるのは当然のことだと思っていました」

父親は「一つのモデル」だったのかもしれないと振り返る
撮影=今村拓馬
父親は「一つのモデル」だったのかもしれないと振り返る

ただし、上京する村木さんに対して、父親は単に仕事を続けよとは言わなかった。

「仕事をやって偉くなっても褒めてあげないけれど、仕事をやって家庭も持ったら褒めてあげる」

村木さんは2歳の時に実母を亡くしている。それから数年の間、父親は仕事をしながら男手ひとつで村木さんを育てた。父親の言葉の背後には、その時の厳しい生活体験があったのかもしれない。

先輩たちからの「バラバラのアドバイス」

労働省は、村木さんの「どんなことがあっても仕事を続ける」という決意を強力にサポートしてくれる組織だった。1947年に創設されているが、諸官庁の中で女性の地位向上を担うのは専ら労働省という位置づけだったそうだ。

「ですから、私が入った時にはすでに女性の局長がいたし、森山眞弓さん、赤松良子さん、松原亘子さん、岩田喜美枝さんなんていう錚々たる先輩たちがいました。子育て経験がある女性が多くいる環境だったので、女性が子どもを育てながら働くことをとても応援してくれました」

後輩の女性が昇進、転勤、出産といった事態に直面すると、数人の先輩たちが食事会を開いて、それぞれの経験から「バラバラのアドバイス」をくれるのが恒例だった。

「完璧な母親になれなんて言う先輩はひとりもいなくて、人間ホコリじゃ死なないわよって(笑)。保育の専門学校に保育のバイト募集の貼り紙を出してシフトを組んでもらったとか、保育ママを頼んだとか、個別具体的な知恵をいただけたのがありがたかったですね」

29歳で出産、31歳で「子連れ単身赴任」

先輩たちの強力なサポートもあって、村木さんは29歳で長女を出産。産後わずか6週間で職場復帰をしている。31歳の時には、島根労働基準局に「空前絶後」と言われた子連れ単身赴任を敢行することになる。

「夫とは同期入省の友だちみたいな間柄で、同じように働いているんだから家事も同じようにやろうという考え方の人。同期の夫もおそらく同じような時期に転勤になるだろうと予想がついていたので、私の上司は、子どもがまだ小さいから転勤を遅らせてやろうかと言ってくれたのですが、どうせいつかは転勤するんだからいいや! って、思い切って行くことにしたんです」

島根に「子連れ単身赴任」をした
写真提供=村木厚子さん
島根に「子連れ単身赴任」をした

当時の労働省では、子どものいる女性を地方に転勤させる場合、夫婦どちらかの実家に近い勤務地となるようにできるだけの配慮をしてくれていたが、村木さんの実家は高知、夫の実家は北海道。島根とは無縁だった。

「島根では、女性の子連れ赴任など例がなく、空前絶後と言われましたが、私が赴任してから、島根の労働基準局では前例のなかった女性職員の転勤が行われるようになって、転勤を経験した女性が昇進をするようになりました。ですから空前ではあったけれど、絶後ではない。後が続いたんです」

島根では保育所もすぐにみつかり、職場の同僚にも恵まれて、職場の飲み会には幼い娘さんも必ず呼ばれたという。

「飲み会があると、早く保育所に行って連れておいでってみなさん言ってくれて、とてもかわいがってくれました。ある日、ビアガーデンの提灯を目にした娘が、『あれがママの職場だよね』と言ったのには驚きましたけれど(笑)」

娘が「小児てんかん」を発症

島根での1年半は「めちゃくちゃ楽しかった」と村木さんは振り返るが、1988年、32歳で本省の婦人局政策課の課長補佐に昇進すると、打って変わって、地獄のような日々が待ち受けていた。

1986年に施行された男女雇用機会均等法などを担当する、超多忙な部署である。保育所と保育ママの「ダブル保育」の態勢を取ったが、2つ目の課長補佐ポストに異動した矢先に、娘が小児てんかんを発症してしまった。幸い、成長とともに改善する良性の疾患だったが、寝入りばなに発作を起こすことが多く、夜8時には自宅に帰って添い寝をする必要があった。

「受診していた大学病院から、座薬を使っても3分間でけいれんが止まらなかったら救急車で連れてくるように言われていました。だから、寝る時には絶対そばにいなくてはならなかった。上司や部下にごめんなさい、ごめんなさいって謝りながら自分だけ早く帰るのは、本当に辛かった」

異動した直後で一刻も早く新しい仕事を覚えたかったが、圧倒的に時間がなかった。かといって子どもをひとりきりにはできないし、夫にも仕事がある。激しい葛藤を抱えて、村木さんは心身に変調をきたしてしまった。

「階段の踊り場とか、トイレの個室のように人目のない場所に行くと、自然に涙が出そうになるんです。これはマズイと思いました。就職して初めて、『仕事をやめなくてはならないかもしれない』と思い詰めました」

「どんなことがあっても仕事を続ける」という信念が崩れそうになったのは、後にも先にもこの時だけだった。

「果たすべき役割を果たせていない」という思いがあった
撮影=今村拓馬
「果たすべき役割を果たせていない」という思いがあった

「私を責めていたのは私自身」

偶然、元バレーボール日本代表の三屋裕子さんの話を聞く機会があった。三屋さんは引退後、実業界に転じた経験があるが、その際、ある人物から「バレーボールだけやってた奴に何ができる?」といった趣旨の痛烈な批判を浴びせられたことがあるというのだ。

「悔しくて悔しくてたまらなかったそうですが、ある時、批判の言葉は1回しか聞いていないことに気づいたとおっしゃるんです。そのたった1回の批判を、心の中で何度も何度も反芻していたのは自分だ。自分で自分をいじめていたんだと……」

三屋さんの話を聞いた村木さんは、まさに自分が落ち込んでいた状況はこれだったのだと気づかされた。

「考えてみれば、職場で『迷惑だ』と責められたことは一度もなかったんです。責められていると思い込んでいただけ。私を責めていたのは私自身。敵は自分の中にいたんです」

それに気づいた瞬間、憑き物が落ちたように気が楽になった。

「悩んでも仕方のないことは悩むな、悩むなら生産的に悩め。いまは事情があって100%のパフォーマンスは出せないけれど、周囲に支えてもらった分はいつかお返しすればいいと。そう考え方を切り替えたら、その日から仕事がうまく回り始めました。『ここまではやったから後はお願いね』と、わだかまりなく周囲に頼めるようになったんです」

敵は「自分自身の中」にいる

子育てとの両立について、腹を括ったことも大きかった。

「仕事と子育てを両立できなくなったらどうするかと考えて、もしそうなったら自分は子育てを選ぶという答えを出したんです。親であることに1番の優先順位をつけたことで、ちょっとズルいかもしれませんが、自分はいいお母さんなんだと思えるようになりました」

30代で修羅場を乗り越えた経験は、その後の仕事に大きな影響を与えていると村木さんは言う。

「くよくよ悩むより、仕事の内容を整理して今やれることからやる、人を頼るときは躊躇なく頼るというトレーニングが積めたのは大きかったですね。若い人の中には昇進を嫌がる人が多いと聞きますが、ポストに連動した仕事の面白さがあるのも事実だし、ポジションが上がることで見える景色が変わるのも事実です。ダメなら辞めると腹を括って、上を目指すのもいいと思います。敵は常に、自分自身の中にいるんですよ」

「ポチ」になって立場を逆転

気になるのは親子の関係だ。村木さんは1991年に次女を出産しているが、夫の協力もあって長女が中学生の頃には、子どもたちの方から「そろそろ保育ママを卒業したい。自分たちで食事を作れるようになりたい」と申し出てくれるまでに成長してくれたという。

しかし、子どもの成長過程には少々不思議な出来事もあった。

「次女が小学校低学年の頃、私のことをポチと呼ぶ遊びを始めたんです。私がポチになっている間は、人間の言葉はしゃべれないし家事もできないというルールなんです。わずか10分か15分ですが、私がポチになって次女の支配下に置かれると、彼女は満足して家の中の雰囲気がとてもよくなった。親は忙しいと『早くしなさい、ちゃんとしなさい』になりがちですが、もしかすると彼女は、立場を逆転したかったのかもしれませんね」

村木さん、本気でポチになったのだろうか?

「完全に犬になりきりましたよ(笑)。子育てと仕事の両立は大変ですけれど、ひとつだけ言えるのは、仕事と子育てに追われた30代は、とにかく濃かったということです。子どもが生まれたことによって、圧倒的に人生が濃くなりましたね」

人質司法によって164日間の拘留を受けた際、家族は「家のことは心配しなくていい」と言ってくれたという。それは必ずしも思いやりから出た言葉ではなく、「本当に私がいなくても回るチームに育っていたんです」と、村木さんは笑った。

「二人で働いて二人で育てる」夫婦関係だった
撮影=今村拓馬
「二人で働いて二人で育てる」夫婦のチームワークがあった