「デラシネって、どういう意味かわかります?『根無し草』じゃないのよ。正確には『引き抜かれた根』。根っこはあるんです。でも、下ろすべき土地がないということ」
岸惠子さんが、あの口調できっぱりと言った。岸さん自身がデラシネだった。
国際結婚のため単身パリへ渡ったのが1957年。以来、日仏両国を拠点に女優として、ジャーナリストや作家として国境をまたいだ活躍を続けてきた。多様で美しい半面、革命や動乱や、卑近なところではあからさまな人種差別が横行する世界を「見てしまった」のが岸さんだ。
一方、当時の日本は異質なものに冷たい同質社会。岸さんの目には残念ながら「根を下ろすべき土地」とは映らなかった。初期の作品によれば、何よりも失望と苛立ちの対象になったのが、海外に出てまで本社の顔色ばかりをうかがう「紺色のスーツを着た日本株式会社のサラリーマン」たちだ。
ところが、本書『わりなき恋』で主人公が恋に落ちる相手は、その「日本株式会社」のエグゼクティブ。しかも岸さんの分身とおぼしきヒロインは、相手との関係を深めるうちに日本企業や社会、人の生き方に理解を深め、日本に根を下ろそうと決意するまでになっていく。
何が岸さんを変えたのか。
「強くそう思うようになったのは、東日本大震災がきっかけです。私は『プラハの春』の現場やイラン革命直後のテヘランを見ています。でも、震災のときに感じたショックは、それよりもずっと大きかった」
小説の企画そのものは5~6年前に動き出し、震災の時点ではかなりの部分を書き上げていた。しかし、日本滞在中に震災を経験したことで、作品の設定や結末を大きく書き換えることになったという。家庭を犠牲にしてまで会社という共同体に尽くしてきた男が、未曾有の天災に当たりどう行動するか……。
震災直後、フランスの肉親や友人たちから「早く避難を!」というメッセージが何度も届いた。もちろん岸さんの身を案じてのことだ。とてもありがたいと思う一方、この国を見捨てられないという強い気持ちが込み上げてきた、と岸さんは言う。
「ああ、私は骨の髄まで日本人なんだ。そう感じました」
慰問の品を携えて被災地を巡り、福島県の浜通り地方では大きな余震にも見舞われた。その経験を経て書き上げられた本書は、デラシネだった岸さんが日本に根を下ろし、根を張るぞという決意表明でもある。だから一ファンとしてはこう言おう。
おかえりなさい、岸さん。