11月下旬、そろそろ肌寒くなりはじめた岩手県の釜石市を訪れた。

先の東日本大震災で大津波が襲い、多くの犠牲者を出した釜石。避難所への階段を上り、街を見下ろすとその傷跡がまだ残っていた。

釜石の人たちの生命力に打たれた。筆舌に尽くせない体験をしたあとでも、前向きに生きるその姿。震災のとき、外国から賞賛された私たち日本人の苦難に克つ力を、目の当たりにする思いだった。

なかでも心を打たれたのは、「津波てんでんこ」の考え方である。あの日、海沿いにいた小学生や中学生が、「てんでんばらばら」に避難して、助かった。「釜石の奇跡」と呼ばれるその物語には、災害の際にどのように行動するかというテーマを離れても、学ぶべき点が多い。

「てんでんこ」の考え方の第一は、一人ひとりが自分の判断で行動するということである。そのためには、ふだんから知識を蓄え、とっさのときにも自分で動けるようにしておかなければならない。

「てんでんこ」の考え方の第二は、他人もまた、自分の判断で行動していると信頼することである。みんながそれぞれ最善を尽くしていると信じられるからこそ、自分自身も最善を尽くすことができる。

「てんでんこ」の考え方の第三は、どこで落ち合うか、あらかじめ集合場所や目的地を決めておくということである。どこで待ち合わせるかわかれば、家族や友人とはぐれることがない。

津波から逃げた子どもたちや、学校で「てんでんこ」を指導された先生、それに地域の方々の話をうかがっているうちに、これこそが私たち日本人が必要としている考え方、行動規範だと痛感した。人間の生きる道筋というものは、平時にはもちろん、危急のときにこそ濃縮して問われるのではないだろうか。

津波から逃げた釜石市の子どもたち。(写真提供=復興の狼煙プロジェクト)

未曾有の大災害を、ほかの何にも喩えることなど、本当はできない。しかし、釜石の方々の叡智に深く感じ、敢えて敷衍させていただければ、変化のときを迎えている日本人にとって、「てんでんこ」の考え方は、大いに参考になるのではないだろうか。

日本の不調は、インターネット、グローバリズムという変化の大波が押し寄せてきているのに、それに適応できないでいることに起因する。自らも変化しようとしても、ついつい、政府や組織といった、「上」の指示がくるのを期待してしまったりする。

しかし、本当は、変化の大波がどのように押し寄せているかということは、人それぞれで違う。各現場の実情に合わせて、てんでんばらばらに最善を尽くす。そのような「てんでんこ」の考え方こそが、今の日本には必要なのではないか。

集団で統率のとれた行動をとり、上からの指示を待つ。そのような規範が有効なときはもちろんある。しかし、情報ネットワークの発達によりさまざまな知識やスキルがコモディティ化し、個々人が創造的に生きることが求められている現代においては、「一糸乱れず」の集団行動は、かえって適応的ではない。

てんでんばらばらに行動していても、どちらの方向を目指すのかというヴィジョンさえ共有していれば、必ずたどりつけるし、巡り会える。標準化や規制の発想を離れて、「てんでんこ」の哲学を掘り下げるべき時代がきているように思う。

津波から逃げた子どもたちの表情から差す希望の光。この子たちのためにも、日本を良くしたいと心から思った。

(写真提供=復興の狼煙プロジェクト)