イギリスに留学しているとき、「なるほど」と思うことは様々あったけれども、そのうちの一つが「資本」というものの意味である。
資本家が生産設備に投資して利益を得たり、貯蓄に利子がついたり、あるいは有望な対象に投資したり。そんなふうな、お金にまつわるいろいろな話として「資本」や「資本主義」ということをとらえていたけれども、実際にはもっと広い意味があるということを、イギリス人と話しているうちに肌で感じた。
それは、喩えて言えば、人生に「広々とした空間」と「突き抜けた青空」を与えてくれるもの。資本があるからこそ、思いきり挑戦できる。新しいことにのびのびと取り組むことができる。資本には、そんな機能があるということを悟ったのである。
このような意味での「資本」のもっともわかりやすい例は、「年金」である。定年退職したあとの人生を、いかにゆったりと楽しめるか。そのための土台になるのが年金であろう。自由になる時間で、自分の趣味を楽しんだり、家族や友人と旅行にいったり。そのような活動も、年金という「資本」があって初めて可能になる。
イギリスで悟ったことは、「まとまったお金」が人生の「資本」になるのは、何も老後に限らないということである。人間は、定職につかないからといって必ずしも遊んだり怠けたりするとは限らない。むしろ、市場で直ちには評価されない斬新なことに取り組むためには、ある程度の「まとまったお金」=「資本」が若いうちからあったほうがいい場合もある。
その見事な実例が、『種の起源』を著し、地球上の様々な生物がどのように進化してきたかを明らかにしたチャールズ・ダーウィンだろう。ダーウィンにはまとまった資産があったので、定職につく必要がなかった。ダーウィンは「まとまったお金」=「資本」を使ってケント州の田舎に家を購入。生涯の大半をそこで過ごして、様々な実験や考察に費やした。
「種の起源」を明らかにするという計画を、一つの「ベンチャー」としてとらえれば、ダーウィンは自らが幸運にも手にしていた「資本」を、その野心的な企てを実現するために使ったのである。
日本では、若いときは勉強や仕事をずっと続けて、とにかく休む間もなく追い立てられるのが本来の姿だというような一種の倫理観があるように見える。それは、日本人の勤勉さにも通じているが、一方で創造的なことに取り組む余裕を奪っている側面もある。
日々の生活が、「手から口へ」で余裕がないと、その時々の市場から自由になって画期的に新しいことに取り組むことができなくなってしまう。
「まとまったお金」=「資本」を、遊んだり怠けたりするためではなく、むしろ独創の荒野で疾走するために使う。そんな叡智が、イギリスの社会には脈々と受け継がれていることを、いろいろな人との話の端々に感じた。
自由な挑戦を後押しする条件。「資本」として私たちを支えるものは、「まとまったお金」だけではない。知識や経験、スキルもまた「資本」であり、有形無形の財産、人との関係性など、様々なものが「資本」として私たちの挑戦を支える。
インターネットの発達により、大量の情報が無料で手に入るようになった今、「資本」もまたクラウド化し、すべての人にあまねく与えられるようになってきている。「突き抜けた青空」はきっとすでに広がっているのだろう。