「人材育成」に関心を抱く人は多い。企業でも、機会あるごとに研修を実施して、社員の資質の向上を図っている。私も時折招かれて話すことがあるが、何を伝えればいいのか、なかなか難しい。

現状を突破して、イノベーションを起こせる人材はどのように育めばいいのか。異質な他者とも対話して、麗しき共同作業をする。そんな能力は、どうすれば磨けるのか。一人ひとりの働く人間はもちろん、マネジメント、経営者にとっても、能力開発には重大な関心を抱かざるをえない。

ここに、素晴らしい教育機関と、卓越した教育者の事例がある。学びの場は、小さな一軒家。教師は、まだ20代の若者。講義をした期間は、たった2年あまり。

松下村塾は萩市にある松陰神社内に、当時の姿を残している。(PANA=写真)

ところが、この「私塾」が、新しい時代を切り開き、画期的なイノベーションを起こす者たちを輩出した。いうまでもなく、山口県の萩市にある「松下村塾」のことである。塾生の中から、高杉晋作をはじめとする維新の志士たちを輩出したことは、あまりにも有名。吉田松陰は、松下村塾で、一体何を教えたのか。その秘密を探ることは、現代にも示唆を与える。

今日、松下村塾に相当する私塾をつくるとしたら、一体何を教えればいいのか? グローバルなビジネスに欠かせない英語か。創造性やイノベーションに向けたノウハウか? コンピュータやインターネットを理解するために必要な、システム思考か?

さまざまなカリキュラムに思いを巡らせてみても、それだけでイノベーションに邁進する人材を輩出するには至らないような気がする。たとえば、英語がぺらぺらでも、それだけでグローバルなビジネスに革新をもたらせるとは思えない。

吉田松陰が教えたのは、むしろ「心の整え方」だった。基盤となったのは、「陽明学」の思想。「心即理」や、「知行合一」といった考え方を通して、世の中の状況がどうであれ、自らの信念を実践において貫く、そんな生き方の大切さを講じた。

私たちは、生きるうえでさまざまな壁にぶつかる。理想やビジョンがあっても、それが世に受け入れられるとは限らない。市場の状況によって、せっかくの企てが失敗してしまうこともある。それでも諦めずに仕事を続けていくうえで必要なのは、自分の「思い」を整えることである。

「世の中の役に立ちたい」「市場のニーズに応えたい」「もっと自由で、創造的な社会をつくりたい」。そんな「思い」がぶれさえしなければ、いつかは方法が見つかる。そんな心の整え方を、吉田松陰は塾生たちに伝えた。

振り返ってみれば、かつて、日本の学問はまさに「いかに心を整えるか」を中心的なテーマとしていた。日本文化の中には、そのような伝統が脈々と受け継がれている。スティーヴ・ジョブズ氏も、若いときに日本の禅僧に「心の整え方」を学んだ。

いつの間にか、マニュアルや、ノウハウばかりが喧伝されて、「心の整え方」を忘れている現代の日本人。私たちは、ここで、自らの強みがどこにあったのかということについて、もう一度思いだしてみるのがいいのではないか。

まだ行かれていない方は、機会があれば松下村塾を訪問することをおすすめする。こんな小さな家から、新時代を切り開く人材を輩出したとは! 感動の波に包まれて、自分たちにもまだできることがあると、必ず勇気が湧いてくるはずだ。

明日の世界のために、心を整えることから始めよう。

(PANA=写真)