標本は、どこか“気配”を感じさせる不思議なモノ。生命のときが止まっても、どこかに“生”が封じ込められているからだろう。舞台は京都大学総合博物館の地下収蔵室。動植物から鉱物、化石まで260万点あまりから厳選された300ほどの標本が、この本の中でも息づいている。
企画・構成・文を担当した村松美賀子さんは、標本のことを何も知らない素人だった。たまたま大野照文館長と知り合い、一般公開されていない地下収蔵室に入った。
「フラットスキンと呼ばれる熨斗烏賊(のしいか)のようなネズミの標本に衝撃をうけて」「生きていた生物がモノとしてそこにある存在感とその数に、もう圧倒されてしまいました」
本の構想から4年、夥しい日数を地下で過ごすなか「ずっと標本の数だけ“死”があることが気になっていました」。
だが、分類学者が“同定”(生物の分類上の所属や種名を決定すること)の過程で標本と交わす「コレハナンダ?」「オマエ、ゼッタイチガウ」という“対話”があると聞いたとき「もう生きてはいないけれど、標本たちは研究者とだけできる“会話”をしている。私たちの命とどこかでつながって、収蔵室でたしかに息づいている」と思った。
「標本はモノであってモノでないもの。けれどもモノとしての魅力もあるもの」と村松さんはいう。
それは見ようによっては、グロテスクで不気味。独特の臭いすらあるだろう。だが、透過光で見る液浸標本は神秘的だ。剥製の表情には愛嬌すら感じる。褐色の植物に時の流れを見れば、包まれていた新聞紙が歴史的資料になったこともある。小箱の鉱物の結晶に、収集の楽しみ。標本はモノとしてあるからこそ、美的に息づいてもいる。
ページをめくるたびに「ヘェー」「キレイ」と標本たちに出合う驚き。その合間に標本たちの囁く生命の物語を聞けるかどうか? 楽しみながら読者の感覚が試される「大人の科学図鑑」だ。