名前を呼ばれてスイッチオン
最初に彼女の心を溶かしたのは、周囲が「ボヴァリー夫人」と呼ぶなかで、「エンマ」呼びしてきた遊び人のロドルフでした。
「(…)ボヴァリー夫人! ……ねえ! これじゃだれもがあなたを呼ぶのと同じですよ! ……それに、これはあなたの名前じゃない、ほかの人の名前です!」
彼は繰り返した。
「ほかの人のものです!」
「困ります!」と拒絶しつつも、初めて家族以外の人間から名前を呼ばれて褒め言葉を浴びせられ、ボヴァリー夫人は浮かれずにはいられません。
「彼女の自尊心は、蒸し風呂に入ってくつろぐ人のように、この言葉の熱気を浴びて全体がふにゃふにゃに伸びきってしまった」。夫人はついに、一線を越えてしまうのでした。
家に帰って鏡を見たボヴァリー夫人は、自分の目が恋する乙女のそれになっていることを思い知り、「恋人ができた!」と思春期のように歓びをかみしめました。
それまで誰かの娘、誰かの妻としてのみ生きてきた彼女は、不倫相手に名前を呼ばれることで、初めて人生の主人公になったのです。
すると彼女はかつて読んだ本のヒロインたちを思い出し、そうした不倫の恋をした女たちの激情にかられた群れはエンマの記憶のなかで歌いだし、その姉妹のような声は彼女を魅了した。エンマ自身もそうした夢想の女たちの紛れもない一員になり、若いころの長くつづいた空想を実現し、かつてあれほどにもうらやんだ類の恋する女に仲間入りした自分を見ていた。
愛が重いボヴァリー夫人
個人として認められる喜びを知ったボヴァリー夫人は、ロドルフに「もういちど自分を名で呼んで、愛していると繰り返して」とせがみます。夫人は手紙を毎晩要求し、手紙が短すぎると言ってしょっちゅう責め立てるくらい、ロドルフの愛の言葉の虜になっていました。
不倫の恋にのめりこみすぎて「あなたはわたしの王さまであり偶像よ!」とまで口走る夫人のことを、女慣れしているロドルフは冷めた目で眺めます。
男の愛を乞う女の言うことはみんな一緒だ、と。
ボヴァリー夫人は、ありあまるエネルギーと認められたい気持ちを、手近な男を偶像化し、その偶像から崇拝されるという形でしか発散できません。偶像から愛の言葉をささやかれれば、一時的に心は充たされます。
しかし相手を愛しているのではなく、偶像からの承認を求めているだけなので、愛の言葉が安定供給されなくなれば、不安は募る一方です。
求愛時のような崇拝を求めて、ファッションと美容に課金し、高額なプレゼントを貢ぐ。浪費はとどまるところをしりません。破局したら別の男を偶像化し、同じことを繰り返す。結果として、破滅に陥ってしまうのです。


