ライバル番組より1週間も遅れた理由
僕はその日は夏休みをとっていてスペインにいたと古い日記にあった。何てこった。当日のデスク編集長の田中龍男(僕の同期入社の同志。『23』で喜怒哀楽をともにした。元TBS監査役)に後日聞いたところ、筑紫さんの怒りようは尋常ではなかったという。
以降、『23』はこの出来事に徹底的にこだわったが、大展開できたのは何とNSに遅れること1週間、9月19日になってからだった。僕自身も沖縄に出向いて取材を続けたのだが、その結果、どうしても不可解なことが心に残った。
それは、これほどの酷い事件であったにもかかわらず、県警の発表が「貼り出し」(県警広報が記者たちを招集して発表するのではなく、広報ボードに紙を貼り出しておく形式。通常は軽微な事件の扱いの場合に便宜的にとられる方法)だったことだ。それゆえか地元紙の第一報記事が小さな扱いであったこと等を知り、どう考えても僕は腑に落ちなかったのだ。
発生は9月4日、第一報は7日夕刊
地元紙では、琉球新報の第一報が9月7日付夕刊で2段の扱い、沖縄タイムスの第一報は、それより半日遅れだったが8日付朝刊で社会面トップ記事だった。全国紙はもっと遅く、9月9日付朝刊(朝日、読売ともに)でとても小さな扱いの記事だった。
この事件が地元の新聞・テレビで大々的に報じられることになったのは、那覇市議(当時)の高里鈴代さんらが北京で行われていた世界女性会議から帰国して急遽、記者会見を開いた9月11日の午後以降である。
僕にはこの第一報の「時差」の事情が長い間ナゾだった。なぜ、このような一報の遅れがあったのか、と。そして、この本のために多くの関係者から話を聞く旅に出たなかで、20年目にしてようやくその事情がわかった。このことを記すのは古傷の瘡蓋を剝がすためではない。「歴史の記憶」を事実としてとどめておくことの大切さを熟考したうえのことである。
