大英帝国が仕掛けた最悪の罠

中国近代史で避けて通れないのが、1840年のアヘン戦争である。この戦争は世界でも最も「不道徳な戦争」と呼ばれ、中国の屈辱的な近代史の出発点となった。

アヘン戦争末期、鎮江府を占領するイギリス軍
アヘン戦争末期、鎮江府を占領するイギリス軍(画像=Thomas Allom、G. N. Wright/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

18世紀半ばのイギリスの産業革命の成功が、アヘン戦争の背景にある。大量生産体制を確立したイギリスは、その商品を販売する市場を必要としていた。イギリスが目をつけたのが中国だったが、中国は自給自足が可能であり、イギリスとの自由貿易に無関心だった。

しかし、イギリス王室や貴族社会では中国の茶文化が急速に広まり、イギリスは中国から大量の茶を輸入するようになった。当時の貿易決済は主に銀で行われていたため、イギリスは大量の銀を中国に流出させ、深刻な貿易赤字に陥った。

イギリスはこの問題の解決手段として、東インド会社を通じて、インドで栽培したアヘンを中国に販売する策略を選んだ。販売をスムーズに拡大させるため、まず港の荷役労働者に無料で提供し、大量のアヘン中毒者を作り出した。この販売戦略は次第に都市部まで拡大し、ついには一般家庭にまで浸透し、アヘン中毒者が溢れるようになった。

ボロ負けしたのに危機感ゼロ

社会の荒廃と民衆の健康被害は深刻を極め、清朝政府は国家の存亡に関わる危機感を抱いた。清朝は直ちに重臣の林則徐りんそくじょを広東に派遣し、アヘンの没収と処分を断行した。清朝からの予想外の強硬策に激怒したイギリスは、1840年4月に賛成271票、反対262票のわずか9票差で中国との戦争を正式に決定した。80万人の大軍で参戦した中国は、わずか7000人(終戦直前で2万人)のイギリス軍に惨敗する。近代兵器と戦略の差は歴然としており、中国の伝統的な軍事力は西洋列強の前には無力であったことを露呈した。

惨敗した中国は1842年にイギリスと「南京条約」という不平等条約を締結し、香港をイギリスに割譲しただけでなく、上海、広州など5つの沿海都市をイギリスに開放した。

この不平等条約の締結を見たアメリカ、フランスなどの西側諸国も、清朝にイギリスと同様の条件での条約締結を迫り、さらに教会の建設、宣教活動の自由なども確保することに至った。

このような西側諸国との不平等条約を相次いで締結したにもかかわらず、清朝の官僚、知識人などに危機意識はあまりなかった。彼らは中華文明が西洋文明よりはるかに優れているという自負感を持ち続けていたのである。彼らは西洋の技術を「奇技淫巧きぎいんこう(取るに足らないつまらない技術)」と見下し、その本質的な脅威を理解しようとしなかった。