石田三成は石川光重の後継者
「石田三成が石川光重の後継者として光重の子の光元・光吉・一宗の後楯となった。」「三成は信仰面で光重の影響を強く受け、(中略)三成は光重の政治的後継者としての自負があった」という(寺沢論文)。
石川光重は慶長元(1596)年に死去しており、「五奉行」に石川家からの登用がなかったのは、世代交代の谷間にあったからではないか。石田三成が石川家の代わりに奉行に登用されたという見方ができなくもない。
ここで、注目したいのは石田家の名前(諱)である。石田三成の父は「正継」、兄は「正澄」で、なぜ「三成」一人が諱に「正」の字を使っていないのか。そして、なぜ三成の長男は「重家」で、父三成や祖父正継の字を使っていないのか。いろいろ考えて、石川光吉(三成の義弟・石川一宗の兄)が一時期「三吉」と名乗っていたことに行き着いた。
光吉が三吉と名乗っていたのと同様、光吉の父・石川光重も三重と名乗り、三成に偏諱を与えたのではないだろうか。また、三成の子・重家も光重が偏諱を与えた可能性がある。
一方、石川光忠は8歳にして父を失ったため、お亀の方に引き取られ、養育された。
豊臣家滅亡後も石川家は栄えた
光重の長男・石川光元は秀吉に仕え、播磨竜野5万3000石を賜った。関ヶ原の合戦で毛利・石田方についたが、藤堂高虎の助命嘆願により赦され、翌慶長6(1601)年6月に死去した。
光元の側室・お亀の方(相応院。1573~1642)は、はじめ美濃齋藤家の家臣・竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信(1591~1645)を生んで死別。その後、光元の側室となり、石川光忠(1594~1628)を生んだ後に離縁された。さらに、文禄3(1594)年に徳川家康に見初められて側室となり、尾張徳川家の家祖・徳川義直(1600~1650)を生んだ。
家康が江戸幕府を開き、慶長12(1607)年に義直が尾張清須藩主(のち名古屋に移転)になると、異父兄・竹腰正信は附家老に登用され、翌慶長13年に光忠も家康に召し出され、慶長15(1610)年に美濃・摂津で1万300石を賜った。慶長17(1612)年に名古屋城代を命じられ、尾張藩政に参与。子孫は美濃国中島郡駒塚を居所として家老職を務め、四代・正章の代に本家に従って「石河」に改姓。明治33(1900)年には男爵に列した。どこまでもしぶとい一族なのであった。


