事務方たちの血縁ネットワーク
つまり、豊臣家臣団の事務方は、①石川光政・伊藤秀盛の二人組から、②石川光重を含めた「六人組」、③石川氏がいない「五奉行」、④石川光吉・一宗兄弟を含めた「秀頼四人衆」へと変遷していった。豊臣家臣団の事務方の本流は石川家にあり、石川家は石田三成・大谷吉継・真田信繁(幸村)をも包括した巨大な血縁ネットワークを形成していた。
石川家は美濃国厚見郡加々嶋(岐阜市鏡島)出身で、石川光信(光延、家光ともいう)は斎藤道三に仕え、のち織田信長に転じた。その子・石川光政(?~1583)は早くから秀吉の与力とされた。秀吉からの信用が厚かったようで、天正10(1582)年6月、山崎の合戦の戦後処理を伊藤秀盛とともに任された(二人組)。
しかし、翌天正11年に光政が死去。光政が死去した際、子の石川貞政(1575~1657)はわずか七歳だったので、光政の弟・石川光重(?~1596)が後見を務めた。一方、「二人組」は「六人衆」に改編され、光重がその一員に選ばれた。
光政・光重の生年はわかっていない。しかし、「六人衆」の年齢構成から考えると、1530~40年代生まれと思われる。

