カテーテルを患者に突っ込み、口で吸った

ある時ジフテリアの患者がありまして、私が他の病室に行って居る間に窒息してしまいました。私は急いで医局を起こしますと、物に動ぜぬ先生方とて、落付払って帯を締め、紋付きの羽織を召すと云う有様で、とてもそれを待っては居られませんから、直に病室に取ってかえし、床頭のネラトン氏カテーテルの先を切り、突如挟管口に突込んで吸い出しましたが、一度は効なく二度目に吸って、カテーテルをぬくと、一寸三分位の疑膜(偽膜)が飛び出して蘇生しましたが、其時副院長と助手が見えて、助手は「吸い出したのか、大胆だなあ」と驚いて居られました。
大関和
大関和(写真=『実地看護法 5版』国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

和は武勇伝として語っているが、やっていることが無茶苦茶である。

ジフテリアというのは、感染力が非常に高く、当時は死亡することも多い病気であった。この患者が窒息したのは、ジフテリア菌が喉で増殖、炎症によって厚く硬い「かさぶた」のような膜(偽膜)が剥がれて、呼吸を塞いでいたというもの。

それに対して、和がやったのは、手元にあるネラトンカテーテル(通常は尿道などに使う管)の先を切り、吸い込みやすいようにカスタムし、咽に突っ込んで自分の呼吸で吸い出したというもの。

「大胆だなあ」どころじゃない。

「患者を救いたい」あまり、ぶっ倒れる

これ、和が新たな感染源になって患者を拡大させかねない。むしろ助手の「大胆だなあ」は、和があまりに、ドヤ顔をするもので怒る気力も失って「この人に、注意しても無駄だ」ということだったのではなかろうか。もう「私が患者を救うのだ」の自意識だけで職業倫理が崩壊しているのである。

さらに、ほかの患者のエピソードでは、こんな一文も出てくる。

院長は私が患者のために熱心に祈りをして居たことも知り、私の倒れたのもそのためだと云うことを知って居られたので御座います。(大関和子「献身の覚悟で看護婦となる」『婦人之友』7巻11号)

倒れている。和、倒れている。

「私が患者を救うのだ」の自意識が、今度は自分を倒した。ジフテリアを口で吸い出したときは患者が危なかったが、今度は和自身が危ない。どちらの方向にも全力である。

しかも院長はそれを知っていて、咎めていない。「祈りのために倒れた」という事実を、むしろ肯定的に受け止めている節がある。

もはや、この病院に入院したほうが命を落としてしまいそうだ。いったい、櫻井女学校附属看護婦学校はなにを教えていたのか。