浅井は六角家の支配から脱却
京極高清が死去すると、子の京極高広が家督を継ぐ。養子・京極高吉が六角定頼と結んで挙兵。一方、浅井家では亮政の婿養子・浅井明政が高広派、庶子・浅井久政が高吉派(+六角家)となった。亮政の死後、浅井明政と浅井久政が家督を争ったが、六角家の支持を得た京極高吉・浅井久政が勝利した。京極高吉は六角家の支援を得ながら京極家の再興に努めた。
かくして浅井家は久政時代に六角家の支配下にあった。そして、前述の通り、永禄2(1559)年1月、久政の嫡男・浅井賢政(のち長政)が六角義賢から偏諱を受け、15歳で元服。六角家重臣・平井定武の娘と婚姻を結ぶが、同永禄2年4月に妻を離別。六角家と袂を分かつ。
長政は信長の義弟となったが…
永禄3年、久政は35歳の若さで、賢政に家督を譲り隠居した。浅井家が六角家支配から脱却するには、久政が当主では都合が悪いと考えたのではないか。翌永禄4年5月頃、賢政は織田信長から偏諱を受け、長政と改名したという。信長の妹・お市の方と婚約した(婚姻した年は、永禄2年から11年まで諸説あり)。織田家との同盟に踏み切った。
ところが、元亀元(1570)年4月、朝倉家攻めで浅井長政は信長から離反して恨みを買い、以降、織田軍は徹底して浅井家を攻め立て、天正元(1573)年8、9月に小谷城を陥落、浅井長政を自刃に追い込んだ。長政の離反からわずか3年のことだった。


