昔の富士登山にはシェルパがいた

美しく秀麗な姿を誇りながらも、噴火を繰り返す富士山は、神が宿る山としていにしえより畏れられていました。富士は2つと同じもののない「不二」であり、山頂の雪が年中尽きることのない「不尽」であり、福の多い慈しみ深い「福慈」でもあります。

噴火活動が鎮まるようになった平安時代後期には、古来からの山岳信仰と密教が融合した修行の場となります。

室町時代後半には、修験者とともに庶民も登拝するようになり、冨士講の祖である長谷川角行が新たな富士山信仰を開いたとされています。角行の教えは弟子たちに受け継がれ、江戸中期には冨士講が関東を中心に大流行することになります。多くの庶民が富士山への巡礼の旅を行うようになりました。

情報が溢れかえり、海外にも気軽に遊びにいけるようになった平成の御世でさえ、新幹線の車窓から眺める美しい富士山を誇らしく感じるビジネスマンも多いはずです。江戸庶民にとってはどれほどの存在だったのか、想像に難くありません。心のうちに自然に湧き起こる感情として、富士山を敬い愛していたのでしょう。

遠くから眺めるだけでも美しい富士山。実際に登ってみたら、さぞやありがたいことだろう。江戸庶民はきっとそう考えたのではないでしょうか。

しかし当時の江戸は、今のように気軽に旅ができません。庶民が居住地域の外に出ることに制限があったのです。庶民の行き来を緩めてしまうと、犯罪、謀叛、間諜の誘発など危険性が高まるのでは、という認識が幕府にあったのでしょう。しかし何事にも抜け道はあります。巡礼だけは例外でした。

有名な三大詣でです。「伊勢」「金毘羅」、そして「富士」です。

江戸庶民にとっては、距離的に近くて日頃から見慣れている富士詣でが圧倒的な人気でした。しかし比較的に距離が近いといっても、現代とは違って車も電車もありませんから、自分の家から富士山頂まで、全行程を草鞋(わらじ)がけで歩かなくてはいけません。今と違って立派な山小屋もなく、食料も飲み物もすべて山の麓から持っていかねばなりません。登山道も今より整備されていませんでしたから、たいへんな難行です。もちろん、5合目までクルマで行くようなことはできません。そこで、昔の登山者は、「強力(ごうりき)」を雇い、富士山頂を目指すことになります。強力とは、現代でいうならエベレストなどを登山するときに雇う「シェルパ」のようなものです。道案内のほかに、食料や替えの草鞋(わらじ)を持たせたようです。6人の登山者につき1人の強力を雇うことが決まりでした。強力は6人分の弁当と寒さ避(よ)けのかい巻き、草鞋の替えを携えて山を先導したのです。強力としては早く身軽になりたかったのでしょうか、時には食事の時間が早くなることもあったそうです。