兄の一雄に「愚弟」とまで呼ばれた

この嫁に対する裏切りを、一雄は生涯許せなかったのかもしれない。『父小泉八雲』の中では、巌を「愚弟」とまで呼んでいる。ただ、ミドリのほうは、その後「某博士」と再婚し幸せな生活を送ったと記しているのだけが救いである。

さて、その後、巌は癌を患い1937年に40歳で早逝することになる。癌が見つかったのは1934年1月のこと。診断してくれた医師・種市良春は妻ミドリの弟、つまり義弟であった。ところがその僅か数カ月後、巌は令嬢との恋仲が原因でミドリと子供たちに去られている。

命を救ってくれた義弟の姉を裏切ったわけである。巌は空気を読むなんて言葉とは無縁なのだろうか……(小野木重治 編著『ある英語教師の思い出:小泉八雲の次男・稲垣巌の生涯』恒文社、1992年)。

やはり、巌には祖父にあたるチャールズの遺伝子が濃厚に出現していたとしか思えない。なにしろチャールズは、赴任したギリシャ・レフカダ島でローザと恋に落ちた。閉鎖的な島にあって、ローザの一族の男たちから「女を盗んだ」と襲撃までされている。そんな苦難を乗り越えて関係を成就させたはずなのに、捨てたわけである。

(参考:だからセツとの距離が一気に縮まった…「ばけばけ」では描かれない、小泉八雲が重ねた「生き別れた母」の面影

天性の身軽さを備えていた巌。まさに祖父の生き写しとして、40年の短い人生は充実していたといえるだろう。周囲は迷惑この上ないが。その生涯を追った小野木重治 編著『ある英語教師の思い出:小泉八雲の次男・稲垣巌の生涯』(恒文社、1992年)には、教え子たちの手記も収録されている。ただ、教師としての巌の評判が極めてよいことは、伝えておきたい。

“放浪者”だった三男「清」

巌と違い、八雲の放浪者的側面を色濃く受け継いだのが三男の清だった。

早くから画才を見いだされた清は、1919年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学している。学校は中退してしまったが、セツの死後に遺産を得ると、アトリエ兼自宅を構えている。

東京美術学校(1913年)
東京美術学校(1913年)(写真=『東京美術学校一覧. 従大正2年至3年』東京美術学校編、1913年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

一雄によると、セツの死後発覚した百貨店への支払いや方々への借金などの負債を整理する時に、清は貧乏なため出せなかったという。ただ、その後大久保の屋敷を処分した利益は兄弟で分けた。それを得て、アトリエまでつくっているのだから、なかなかちゃっかりしている。

そして、ここで画業にいそしんだかと思いきや、違う。清が新興日本美術展で入賞し画壇にデビューしたのは、戦後の1946年のことである。いったいどういうことなのか? そう、清は根っからの放浪者であった。

東京美術学校に進学した清は、美術モデルだったシズと出会い恋愛結婚。このシズというのは、とにかく清に尽くした女性であった。小泉時(一雄の長男)は、シズのことをこう記している。

一雄夫婦も最後までほめていたが、シズという女性は非常に献身的な人で、中野の鷺ノ宮駅近くでビリヤード場を経営し、生計を支えた。
(ワシオ・トシヒコ 編著『画家・小泉清の肖像:回想と評伝抄』恒文社、1995年)