血を争えないハーンの好色ぶり
ハーンがアメリカで許されぬ異人種間の結婚を半ば強行した背景には、異文化に対する飽くなき関心はもちろん、母を通じた自らのギリシャ・東地中海方面につながる血筋や、父方のヨーロッパ大陸由来かつユダヤ系と思われる東地中海由来の家系へのシンパシーがあったのではないか。
また、自らの左目の怪我と相手方の肌の色という二人の社会的ハンディキャップによる共感、さらには「ハーン」とも十二分に釣り合う「フォリー」という王族にもつながる格式の高い家名への親近感もあっただろう。
ハーンとフォリーの結婚は、まさに父親のローザとの結婚を彷彿とさせる。ハーンには女性に対する父親譲りの、いやそれ以上の激情的かつ猪突猛進的な性向があったのだろう。フォリーは、父親にとってのローザ以上に、エキゾチックであることと名門家系であることを同時に満たす存在だったのだ。
他方で、ハーンにとって最も重要な人物の一人は、「文章上の恋」と表現され、愛おしいにもかかわらず再会すら叶わない「ミューズ」(芸術創造の源泉たる女神)、ルイジアナ出身の女流ジャーナリストであるエリザベス・ビズランドだ。
ビズランドというのは相当に珍しいスコットランド姓であるが、もともとユグノーの家系だ。外科医だった父トマスの母は、有名なスコットランドの宗教改革者で、カルヴァン派プレスビテリアン(長老派)の創始者ジョン・ノックスの末裔とされる。またビズランドの母のブラウンソン姓も、ドゥームズデー・ブック記載の姓で、貴族家系である。
一見してルイジアナ出身のアメリカ人とギリシャ生まれのイギリス系との間には大きな隔たりがあるが、実はもともとヨーロッパ大陸のフランス語圏がルーツという同族でもある。
日本に抱いた期待と失望
ハーンはルイジアナ滞在時代にビズランドと知り合い、お互いに敬愛しあい、日本行きの機縁ともなった。ルイジアナ時代のハーンは黒人文化に共感があり、文化人類学者さながらの筆致で記事を量産していた。ビズランドは、ハーンが日本について書いたものを読みたいと言って、自らも立ち寄ったことがある日本行きを勧めている。
日本でのハーンは多作であったが、遠く離れた彼女の目に触れることを念頭に日本から毎年のように作品を書き続けたようだ。他方、彼女はハーン亡き後にはその伝記をも執筆し、また日本を訪問して遺族を支援した。
1890年に39歳で日本にやってきたハーンのその後の生活は、「ばけばけ」でも克明に描かれた。松江、熊本、神戸、東京(東京帝大、最後は早稲田大学でも)で英語・英文学教師等を務めつつ著作に励み、日本の伝統文化に重きを置いた民俗的な作品を毎年のように発表した。他方で近代化や富国強兵に邁進する日本の姿には失望と危惧を抱いていた。
ハーンは晩年に長男を連れて渡米しようとしたが、結局離日することなく最後は東京で亡くなり日本に骨を埋めた(墓地は雑司ヶ谷霊園)。
