信長は裏切った義弟を許さず…

同元亀元年6月、信長は姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した(ただし、この合戦は江戸時代の御用学者が徳川家康の武功を讃えることが主目的で、浅井・朝倉軍にとって大きなダメージではなかった)。姉川の合戦以降、信長は横山城(滋賀県長浜市)に木下秀吉、佐和山城に丹羽長秀(池田鉄洋)を置いて、浅井家重臣の調略・切り崩しを謀った。

織田信長像
織田信長像(写真=狩野元秀/長興寺所蔵/東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

元亀4(1573)年7月、信長は将軍・足利義昭を京都から追放。8月に浅井家重臣の山本山城主・阿閉あつじ淡路守貞征さだゆきが投降してくると、信長はこの機を逃さず北近江に出陣、小谷から越前への通路を遮断した。朝倉義景は浅井家の後方支援として2万の軍勢を率いて出陣したが、結局、大きないくさもせずに敗走。織田軍は追撃し、北近江から若狭に続く浅井・朝倉軍の砦を次々と陥落。越前に乱入して朝倉義景を自刃させる。信長は急ぎ北近江に兵を戻して小谷城を攻め、8月28日に浅井長政を自刃させ、浅井家は滅んだ。

落城にあたって、お市の方は3人の娘をともなって脱出して保護され、本能寺の変後に柴田勝家(山口馬木也)に再縁した。

よく言われるように、浅井家は滅亡したが、長政の娘が豊臣・徳川の世子を生み、実質的に天下を取ったと評価されている(3代将軍・徳川家光は江の子でない説が近年有力で、8代将軍・徳川吉宗以降も関係ないのだが)。

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