お市の産んだ次女が「初」とは?

浅井長政とお市の方夫妻は一男三女をもうけたとされている(子の生年については諸説あり)。

・男 万福丸(1564年生まれ?) 浅井家滅亡の際に殺害される。
・娘 茶々・淀殿(1567、1569年生まれ?) 豊臣秀吉の妻。秀頼の母。
・娘 はつ (1568、1570年生まれ?) 京極高次の妻。
・娘 ごう(1573年生まれ) 佐治与一郎一成、豊臣小吉秀勝、徳川秀忠の妻。

「豊臣兄弟!」では永禄10(1567)年頃にお市の方が浅井家に輿入れし、嫡男の万福丸は前妻の子であり、お市の子ではないとするようだ。のちに万福丸は浅井家滅亡の際に、秀吉軍の手によって殺害されてしまうので、物語の進展上よろしくないと判断されたのかもしれない。

その一方、茶々・淀殿(井上和)をお市の子ではないとする説もある。確かに次女の名前が「初」というのは、通常では納得しがたい。万福丸と茶々は前妻の産んだ子という見方もできるかもしれない。

浅井長政夫人(お市の方)の肖像画、1580~90年ごろ、高野山持明院所蔵
浅井長政夫人(お市の方)の肖像画、1580~90年ごろ、高野山持明院所蔵(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

美濃を攻略した信長は越前へ

永禄10(1567)年8月、信長は美濃稲葉山城を落として、斎藤龍興を追放。城下を岐阜と命名して居城とした。さらに永禄11(1568)年9月に観音寺かんのんじ城(滋賀県近江八幡市安土町)を落として、六角義賢を追放。信長は足利義昭(尾上右近)を奉じて上洛した。

元亀元(1570)年4月、信長は朝倉義景(鶴見辰吾)を討つため、越前に進軍。朝倉の支城を陥落させ、わずか2日で敦賀郡を制したが、長政が離反。信長は浅井軍に近江路を塞がれたり、背後から追撃されることを恐れ、殿軍しんがりに木下秀吉(池松壮亮)を置き(一説に池田勝正、明智光秀も同行)、急ぎ撤退した。有名な「金ヶ崎の退き口」である。

なお、浅井長政がなぜ信長から離反したかは定かではない。従来、亮政以来の朝倉家との旧縁を重視したとの説が支配的であったが、実際にはそのような関係にない。永禄3(1560)年に六角義賢が子の義治の婚姻について、判断を誤ると「朝倉氏は浅井氏と関係を深めると考えるが、その時お前たちはどうするのか」(『六角定頼』)と宿老を叱責しており、この時代はまだ両者の関係は親密でなかったと考えられる。

浅井家の来歴を顧みると、京極高清・高広・高吉、および美濃斎藤家・六角家の間を「昨日の友は今日の敵、そして明日にはまた同盟」という離合集散で生き抜いてきた。信長との同盟・離反も同じ感覚で行ったのではないか。ただ、信長はそれを許さなかった。