神道には仏典や聖書のような聖典がない

鳴物ということでは、神社では、拝殿に鈴がつけられていることが多い。それは「本坪鈴ほんつぼすず」と呼ばれ、礼拝に際して、神の注意を引く、あるいは穢れを祓う役割を果たすと考えられている。

禅宗のお寺になると、行動の合図として言葉ではなく鳴物が用いられるので、その種類は多い。その中でもっとも重要なのは、魚の形をした「魚梆ぎょほう」である。

こちらは、規模の大きなお寺にだけ見られるものだが、仏典を納めた「経蔵」もある。仏典の数は膨大で、印刷技術が発達していなかった時代には、すべて書き写さなければならず、その巻数はかなりのものになった。

仏典を集めたものが「一切経いっさいきょう」、あるいは「大蔵経たいぞうきょう」で、経蔵はそれを納めている。聖典を持たない神社には、当然のこと経蔵にあたるものはない。

「神のための場」と「人のための場」

やはり神社にはなく、お寺にあるものとして、「庫裏くり」や「僧坊」がある。どちらも、僧侶が寝起きする場所のことで、現代のお寺になると、庫裏で住職の一家が生活していることになる。

僧侶の後ろ姿
写真=iStock.com/zomby007
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実は、この点は重要である。

神社の場合、神に仕える神職は、「神主」と呼ばれることが多いが、神社に住んでいるわけではない。街の中で、僧侶の姿は見かけても、神主の姿を見かけないのも、それが関係する。神主は、神社に奉仕しているときだけその装いをしており、そこから退く時には平服に着替える。

ところが、僧侶にはその区別がない。お寺にいようと、そこを出ようと、僧侶であることにかわりはなく、絶えず僧服を身にまとっている。そして、お寺に住んでいる。

島田裕巳『大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』(育鵬社)
島田裕巳『大乗仏教はなぜ日本人を魅了したのか』(育鵬社)

こうした点から、私は、神社とお寺を、「神のための場」と「人のための場」という形で区別している。神社の領域は、あくまで神を祀るために存在するわけで、主役は神であって人ではない。

したがって、普段神主がいない神社も珍しくない。規模の小さな神社になれば、むしろそれが一般的である。正月や例大祭が行われるときだけそこに神主がやってくるのは、いくつもの神社を兼務している神主が多いからである。

街角に建つ小さな社ともなれば、鳥居と本殿だけがあり、人の居る余地がない。それは、屋敷神やビルの屋上などに建つ企業などの神社の場合も同様である。重要なのは神であり、神を祀る空間さえあれば、それで神社は成り立つのだ。

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