仏教は、悟りや修行で苦や煩悩を克服する

こうしたことはイスラム教のモスクでも見られる。モスクには水場が用意されていて、そこで浄めてから礼拝に臨む。イスラム教の創唱者であるムハンマドの言行録である「ハディース」は、コーランと並んでイスラム法であるシャリーアの法源とされる重要なもので、そこには、礼拝の前にいかに浄めるかということが相当に詳しく記されている。

この点で、神道とイスラム教のあり方には共通性があると言える。ただし、キリスト教のカトリック教会でも、その入り口に「聖水盤」が設置されていて、信者はそれに指を浸し、十字を切る。果たしてこれを浄めとしてとらえていいのかは難しいところだが、水に神聖な力があるとする点では共通している。

一方で、仏教の場合には、穢れという観念はない。仏教の立場からすれば、穢れは外面的なものに過ぎず、重要なのは人間の内面にある苦や煩悩になる。それは悟りや修行によって克服すべきものであり、たとえ禊のようなことを行ったとしても取り除くことはできないと考えられている。だから、基本的にお寺には手水舎はないのだ。

手水舎
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除夜の鐘は明治ですたれ、昭和に復活

お寺の中心には本尊を祀る本堂があり、他にも様々な堂宇どううが建ち並んでいる。それぞれの堂宇には、やはり各種の仏が祀られている。

神社でも、本殿には祭神が祀られ、その他に摂社や末社があり、そこには、その神社の祭神とかかわる神々や、必ずしも直接的にはかかわらない神々が祀られている。地域が開発されたりといった事情で祀られなくなった小祠が近くの神社に持ち込まれたりするからである。

神社にはなくお寺にあるのが鐘楼である。お寺の鐘は朝夕の時報として鳴らされ、とくに大晦日の除夜の鐘はよく知られている。それは、108あるとされる煩悩を鎮めるためのもので、大晦日の風物詩ともなっている。

なお、除夜の鐘は鎌倉時代から室町時代にかけて主に禅宗のお寺で撞かれていたものの、明治になるとすたれ、昭和の時代に入って、NHKがラジオで「除夜の鐘」という番組を始めたことで復活した。今の「ゆく年くる年」の前身である。

寺の鐘
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