「敗因はデマ」はアンチをさらに喜ばせるだけ

そもそも「完全なる虚偽」というものは、なかなか断言するのが難しい。存在しないことの確認を、よく“悪魔の証明”と表現するが、まさにそれと同じだ。否定しようとしても、終わりが見えない消耗戦になってしまうため、「どこまでお付き合いするか」がポイントになる。

名指しされた人物は、誠実に対応しようとすればするほど、そちらにリソースが割かれてしまう。当然ながら、一番責任を負うべきは、根拠のない情報を発信・拡散した人々だ。しかし、司法判断などによる“完全なる否定”は(少なくとも選挙期間内には)難しいことから、結果的に“投稿した者勝ち”にならざるを得ない実情がある。

こうした性質を考えると、デマを敗因の中心に置くことは、あまり得策ではない。あくまで「自分たちは間違っていなかった」という弁明において、「卑怯なデマにやられた」といったストーリーを示すことで、留飲を下げようとしていると感じさせてしまうからだ。

確かに、再起を誓うための“支持者同士の結束”には効果がある。しかし、それはあくまで内向きのものでしかない。対外的には「他責思考ではないか」といった印象を与えてしまい、むしろアンチにさらなる攻撃材料をプレゼントしているのと同じではないか。

SNSのない時代にもレッテル貼りはあった

アンチによる攻撃の本質は、「こいつには何を言ってもいい」という雰囲気づくりにある。考え方が目立っていたり、言動が注目されたりしている人物は、そうしたターゲットになりやすい。デマのせいだと主張することは、あらゆる点からやめたほうがいいだろう。

そもそも、SNSがなかった時代も“レッテル貼り”は存在した。テレビが主戦場だった時代も“切り取り”はあった。かつては「コメンテーターとしてお茶の間に認知されている政治家」に限られていた監視の目が、SNSの普及で広がり、分散しただけであり、構図そのものは大きく変化していない。