信長が同母弟を殺した真相は…
信秀の三男・織田勘十郎信勝(中沢元紀)の母は、信長と同じ土田御前(信長の母)。
父・信秀は那古野城から古渡城・末盛城へ移転する際、信長を那古野城に置いて、それ以外の子女を連れて行ったらしい。天文21(1552)年3月に信秀が死去すると、末盛城の主は信勝となった。
信秀の死後、信長附きの筆頭家老・林秀貞(諏訪太朗)が信長から離反し、信勝や柴田勝家(山口馬木也)ら末盛城附きの武士を仲間に引き入れ、信長・信勝兄弟を不和に導いた。林・柴田らが連合して信長と稲生で合戦に及び敗退、蟄居を余儀なくされた。柴田勝家が信長方に信勝の謀叛を告げ口。永禄元(1558)年11月に信長は仮病を使って信勝を清須城に招き入れ、暗殺した。
弟たちは討ち死に、自害、急死
信秀の五男・織田九郎信治は元亀元(1570)年9月に森可成(水橋研二)とともに近江宇佐山城を守り、討ち死にした。
信秀の七男・織田彦七郎信興は伊勢長島の抑えとして、尾張小木江城(古木江。愛知県愛西市森川町)に置かれる。元亀元(1570)年11月に伊勢長島一向一揆に襲われ、自害した。
信秀の四男・織田三十郎信包は、信長が北伊勢を攻略して長野家の婿養子になった(のち織田に復姓)。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では毛利・石田方につくが、なぜか丹波柏原4万石を与えられる。晩年は大坂城で秀吉の側室となった淀殿(姪に当たる)に近侍するが、大坂冬の陣の前年に喀血し急死する。暗殺の噂がある。

