八雲「月給100円でも足りない」と話したが…

実際「山陰新聞」1891年6月28日付では、八雲が月給100円でも足りないと話していることが報じられている。八雲の場合、あちこちに出かけているのに加えて、煮炊きの煙が嫌だからと、食事は全部旅館や料理店から運ばせている。しかも、夕食は常に洋食だ。そりゃあ、金がかかってしようがない。

もしも、漱石が同じような状況だったら「まったくウチの奥さんの実家のせいで」とか、随筆を書き散らし、ついには小説のネタにまでしそうだ。ところが、八雲はそうしたボヤきを一切残していない。

あえて残さなかったのか、いや、自分の収入がセツの実家に削られていくことをまったく、苦にしていなかったのだろう。その理由は、家族への憧れだ。

八雲は2歳で両親が離婚し、母とも生き別れた。父の親族に引き取られたものの、そこでも愛情に恵まれることはなかった。孤独な少年時代、19歳でアメリカに渡ってからも、家族というものを持つことはなかった。当然、家族というものに憧れがなかったとは思えない。

憧れた“母の故郷”の家族観

そして、八雲が憧れたのは、もはや僅かな記憶の中で思い出すしかない母・ローザが生まれ育ったギリシャのような大家族であったろう。

地中海世界の家族観は、近代化された英米のそれとはまったく異なる。

祖父母、父母、子供、そして親戚までもが一つ屋根の下、あるいは近隣に住み、日々顔を合わせる。誰かが困れば助け合い、喜びも悲しみも共有する。血縁が生活の基盤であり、一族郎党が運命共同体として生きていく。

働けない者がいれば、働ける者が養う。

老いた者は若い者が面倒を見る。

金を稼げない者がいても、一族全体で支える。

それが当たり前。それが家族。

近代的な核家族観=夫婦と子供だけの独立した世帯から見れば、非効率で煩わしいかもしれない。だが、地中海世界ではこれが「家族」の本来の姿なのだ。

松江で八雲が手に入れた稲垣家と小泉家は、まさにこの地中海的大家族そのものだった。働けない養父母、物乞いまでした実母、後から転がり込んでくる厄介な義弟……これらすべてが、八雲にとっては「ようやく手に入れた家族」の証だったのだ。

(参考:だからセツとの距離が一気に縮まった…「ばけばけ」では描かれない、小泉八雲が重ねた「生き別れた母」の面影

妻の節子、長男の一雄と共に写るラフカディオ・ハーン
妻の節子、長男の一雄と共に写るラフカディオ・ハーン(写真=市田左右太/小泉節子『思い出の記』:毎日がエドガー・ケイシー日和/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons