耳元で囁かれた同僚からの「不正の誘い」

保険に加入する際、申込者は自分の健康状態について保険会社に告知しなければならない。過去の病歴、通院や入院の有無、服薬状況などの申告をもとに、保険会社は、保険への加入を引き受けるかどうか、また保険料や保障内容に制限を加えるかどうかを判断する(※2)。虚偽の告知があると、保険金の支払いが拒否されることもあるため、正確かつ誠実な告知は必須だ。

高齢者の場合、健康告知では「お薬手帳」を持ってきてもらうのが一番手っ取り早い。自分の持病をきっちりと把握している人は多くないため、「お薬手帳」にある薬の名称から、その人の持病を確認するほうが効率的なのだ。

娘さんが取り出してきた、春日さんのお薬手帳にはたくさんのシールが貼られていた。高齢者になれば、お薬手帳がシールでいっぱいというのはよくあるパターンだ。

「アムロジピン」。これは高血圧の薬。ほかの家でも何度も目にしているので、錠剤名だけでわかる。

「グリベンクラミド」。これはインスリンを出しやすくして血糖値を下げる薬。以前はかんぽでは告知の審査が難しかったらしいが、今はそうでもないらしい。

そうやってお薬手帳をチェックしていくと、吉井代理があるページを指差しながら、私の耳元でささやいた。

「半沢さん、これ、名前見るの初めてだったけど、今スマホで調べたら(※3)心臓の薬ですね。持病は高血圧までにして、これは外しておきましょうか」

シニアのビジネスマン
写真=iStock.com/koumaru
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※2 判断する
保険を引き受けるかんぽ生命側が被保険者のリスクを勘案する。高所作業員、建設作業員などの「危険作業従事者」、漁師、船員などの「海上・漁業関係者」、スタントマンなどが保険に入りにくいのは、それぞれの職業のリスクを勘案してのことである。
※3 スマホで調べたら
私用スマホは内規で営業先への持ち出しが禁止されていた。ただ、金融渉外部のメンバーはみな黙って持ち出して使用していた。とくに土地勘のない私はスマホなしではアポイント先にもたどり着けないのだ。

あっさり覆された保険契約の前提

私は言葉に詰まった。これは外しておきましょうか? 心臓に持病があることを知りながら、それを告知しなければ、「告知義務違反」にあたるのではないか。

前職の保険代理店時代、新規開拓営業でどれほど契約取りに苦しんでいるときでも健康告知で不正をしたことはない。それをごまかせば、業界全体での公平性が失われるし、保険契約の根底を覆してしまうことにもつながる。保険の営業マンとして絶対超えてはいけないライン(※4)が告知義務違反だ。

「それはまずいでしょう」という言葉がノドまで出かかった。いや、ノドに届く前に私が押しつぶしていたのかもしれない。

ここで「NO」と言えば、契約はついえる。いろいろと気遣ってくれる吉井代理の顔を潰すことにもなるし、関係性も悪くなるだろう。

私は黙ってその指示に従い、春日さんに言った。

「『持病』のところには『高血圧』とお書きください」

※4 絶対超えてはいけないライン
保険代理店時代、健康告知になったタイミングではお客に自発的に告知事項を記入してもらっていた。これが保険募集におけるもっともオーソドックスなやり方だ。持病についてよくわかっていないというお客がいた場合のみ、「お薬手帳」の持参を依頼した。また、契約金額が大きいものなどは、ドクターとの面接を入れるなど徹底していた。なお、どうしても取りたい契約の場合に事前にドクターに裏金を渡すケースについては耳にしたことがある。これも絶対超えてはいけないラインであるが……。