喋りながら自分で答えを出していく

新井医師は彼女が一度も経験したことがない、一般的な母親像、あるいは祖母像を手取り足取り教えていった。くり返し、何度も、何かの教科書を読むかのように。

「一般的な母親像というものを、彼女は経験として全く知らないわけです。虐待を受け、粗末にされて育ったわけですから。それは、彼女の娘も同じでした。僕が母親像というものを話すと、彼女はそれを実践するんです。学んだことを、実践する。娘に愛情を注ぐということをやってみると、娘からのフィードバックがある。愛情を受けたことへの反応ですね。だから僕は精一杯、彼女が母親として、その後は祖母として、子どもと孫に関われる道を支援したという形です」

その実践という過程を通し、彼女は変わっていった。

「彼女は次第に自分で喋りながら、自分で答えを出していくようになったんです。いつの間にか、診察室はそのような場になっていきました。振り返るだけで、自分のことが客観的にわかるようになりましたね。『こういうことか』、『ああいうことか』と達観できてくるので、『無理もないわね、あの子も。私も大変だったから、人の言葉が耳に入らなかった。私を責めるしか、ないわよね』と言えるようになって、子どもからの非難を受けとめられるようになったのです。時間はだいぶ、かかりましたけどね」

「優しいおばあちゃん」になった今

子どもは結婚して、彼女には孫ができた。親子間ではいろいろあったけれども、今、彼女は娘や孫と「会える」関係だ。

「彼女は優しい親にはなれなかったけれども、今、優しいおばあちゃんになっている。その過程をすべて、僕は見させてもらいました。おばあちゃんとして、娘たち家族を助けることができる、そういう関わりを持ち得ているんです」

ということは、虐待の連鎖はここで断ち切られるのだろうか。その問いに、新井医師は確かに頷いた。

「母子ともに解離があったのは、夫の暴力だけではなく、まさに虐待の連鎖でした。彼女自身、親から虐待を受け、そして子どもに虐待行為をしていた。今は自分の親を、『あの時は貧しかったから、仕方がない。許せる』と話しています」

間違いなく診察室での新井医師の伴走がなければ、連鎖を断つことは不可能だったと思うし、彼女自身が「達観」に辿り着けたかどうかはわからない。だが、そのリスクは減っていると新井医師は感じている。子どもと引き離されて、たった一人。孤独の海に溺れ、自暴自棄になってしまう道と隣り合わせの15年でもあったのだ。

「虐待の連鎖は断つことができる」と言う新井康祥医師
提供=「楓の丘 こどもと女性のクリニック」
「虐待の連鎖は断つことができる」と言う新井康祥医師

「今、彼女は『いざとなったら相談できる相手はいるし、その話を聞いていけば大丈夫だと思う』という自信を手にしています。そうやって、ちょうど良い距離感で、子どもや孫と関われているんです。彼女を見ていると、トラウマの治療だけに限らず、家族との繋がりを再構築していくことができたと思います。彼女は今、生きていてよかったという自己肯定感の中で生きています」