「貧乏でよかった」と言ったシングルマザー

たとえ、子どもの問題で来院しても、ここでは親子双方が治療対象となることが多い。この「親子並行治療」は、かつての勤務先である「あいち小児保健医療総合センター」の心療科で行われていたことだ。

「親子並行治療の方に限らず、すべての方に家族関係の詳細を確認することがすごく大事なので、予診が1時間、診察と合わせると最低2時間はかかるんです。めちゃくちゃ、事細かに聞くんですよ。みなさん、『いろんな病院を回ったけど、ここまで話を聞いてもらったのは初めてです』とか、『これは、ここで初めて話しました』などと言われますね」

そんな中、新井医師はある女性の話を始めた。

その母子家庭の母は、「あいち小児」の頃から、かれこれ15年にもわたり支え続けてきた患者だった。その女性が先日、「先生、私は貧乏でよかったと思っています」とはっきりと言った。意外な言葉だったが、頷けることでもあった。

「生活が苦しいと、どうしてもただ生きることに必死にならざるを得なくて、悩んでばかりなんていられなくなります。そうやって一生懸命に生きることで生活の困難に立ち向かっていく中、困難を乗り越える経験を積むことができる。それが自分の自信となり、トラウマを乗り越える力になる。PTSDの根っこには自己評価を下げるというものがあり、その根底が盛り上がってくる感じです。自己評価が上がっていきますね。本人は必死で気づいていないことが多いので、診察で伝えてあげる必要はありますが」

新井医師は続ける。

「とはいえ、貧しさゆえに、実際の生活は大変で、何とかしてあげたいって、話を聞けば聞くほど思いますね。もうちょっと、行政が支援してほしいです。せめて、シングルマザーで、子どもが小さいうちは、働く時間が半日ぐらいで済むように」

患者に仕事を勧めた医師の意図

女性の診断名は、解離性同一性障害。複数の人格があったり、記憶が飛んだり、遁走とんそうしたりと、虐待の後遺症で最も重く、治療が難しいとされるものだ。

「彼女は最初、まさに生きるか死ぬかの状態でした。診察室にわーっと泣き叫んで入ってきて、つらさを訴えるのですが、記憶が混乱していて、本人もよくわからない部分もありました。解離の直接のきっかけは、夫の暴力です。過去に親から受けた虐待という素地があったところに、夫の暴力で大変な状況になった。その夫とは離婚して、子どもは施設に預けることになりました。母親と離したほうがいいと、児童相談所が判断したのです。彼女の子どもにも解離があり、あいち小児に入院して治療することになったのですが、その子の解離はとても激しくて、退行してしまうんですよ」

離婚して子どもと離れ、混乱の渦中にあるその女性に、あいち小児での最初の主治医は「あなたは、働きなさい」と言ったという。その後、新井医師も働くことを支えるという方針を継続して、仕事をすることを勧め続けた。

「母子ともにすごく大変で、死にそうなところに『働け』なんて、ひどいことを言う人だと、彼女は当時思ったそうです。でも今、彼女はこう言ってきます。『私、その先生にすごく感謝しています。働いていなかったら、私、乗り越えられなかった』と」

老朽化したアパートの後ろの狭い路地
写真=iStock.com/Kunihito Ikeda
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