早くから知り合いだった可能性

では、どうして藤吉郎は寧々と結婚することになったのだろうか。寧々が「想い人」だったからだろうか。

2人の結婚に際しては、寧々に読み書きや学問などを指導していた女性がからんでいるといわれる。その女性とは、藤吉郎が寄子として仕えた木下雅楽助の妹である。先の黒田氏によれば、岡山県史第25巻所収の『森家先代実録』には、その女性が藤吉郎を見込み、女性の夫であった那古屋なごや敦順をとおして、浅野長勝に養女の寧々と藤吉郎の結婚を勧め、信長への執り成しまでしたと書かれているという。

2人が結婚したのが永禄8年(1565)8月であったなら、すでに藤吉郎は100貫の所領をあたえられた侍大将になっていた。その立場であれば、結婚するのに主君たる織田信長の承認が必要だった。

すでに記したように、藤吉郎と寧々は親戚関係にあり、しかも、自分の寄親である木下雅楽助の妹が寧々に学問を教えていた。ということは、2人は比較的早い時期から知り合いだった可能性が高く、たがいに、あるいはどちらか一方が、相手に恋心をいだいたこともあったかもしれない。

前田利家が媒酌人という記載

しかし、戦国時代の武士のあいだで、恋愛が結婚の動機になることは基本的になかった。結婚は主君の承認が必要なだけでなく、相手の家との関係強化の必要性など、周囲の状況によって決まるものだった。

2人の婚姻は、浅野家に伝わる史料や『森家先代実録』など、史料によって内容が若干異なる。後者によれば、信長に結婚を承認してくれるように働きかけたのは、前述のように那古屋敦順夫妻ということになる。一方、浅野家の史料では、浅野長勝の兄(または父)の浅野長季、大橋重賢のほか、柴田勝家や前田利家という名前も挙げられている(前田利家が媒酌人を務めた、という記載も見られる)。

前田利家
前田利家(写真=個人所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

前出の黒田氏はこう書く。「当日の婚礼を、浅野長季・柴田勝家・大橋重賢・前田利家らが取り仕切り、河野善左衛門尉・高間小左衛門尉が世話をし、信長から使者が派遣されて祝儀が贈られた、というのは確かなことであったと思われる」(前掲書)。

こうした記録を見ても、2人の結婚が信長の家臣団のなかにおける、家と家との結婚であったことがよくわかる。加えるなら、秀吉との関係性が終始悪かったようにもいわれる柴田勝家や、この時点では「豊臣兄弟!」でも藤吉郎の目の上のたんこぶのように描かれる前田利家の名もあるのがおもしろい。