結婚時の評価は「1000万円超」
最初に、藤吉郎が結婚するまでの出世について記しておきたい。『明智軍記』の「秀吉立身之事」には、それまで小者(雑用を務める奉公人)にすぎなかった藤吉郎が、足軽とはいえ士分に取り立てられたきっかけが記されている。桶狭間合戦の翌年の永禄4年(1561)8月に清須城の塀が崩れた際、修理奉行を買って出てしっかり成し遂げたのが、信長に評価されたのだという。
それを機に出身地にあやかって中村藤吉郎と名乗り、信長の馬廻衆だった木下雅楽助の寄子(寄親の配下または庇護下の武士)になる。翌年には、雅楽助の苗字をもらって木下藤吉郎と名乗るようになったという。
その後、信長が居城を清須から小牧山(愛知県小牧山市)に移すと、美濃(岐阜県南部)の斎藤家との争いのなかで軍功を挙げ、まずは100貫(現代の価値に置き換えると1000万~2000万円程度か)の所領をあたえられ、侍大将に出世した、と記されている。
実際、信長が尾張(愛知県西部)を平定した永禄8年(1565)には、秀吉が信長の指示に従って、美濃の武士に所領をあたえる仲介をしたという記録が史料に見られる。寧々と結婚したのも、この年の可能性が高いとされている。
秀吉と寧々は親戚関係にあった
寧々の父は「豊臣兄弟!」でも一緒に暮らす浅野長勝だが、正確には養父である。実父の杉原定利は杉原家利の婿で、家利の娘の朝日殿の婿として杉原家に入ったとされる。この朝日殿が寧々の実母で、浅野長勝の妻の姉妹にあたるという。すると、長勝は妻方の姪を養女にしたことになる。
その長勝は『信長公記』によれば、信長馬廻の弓衆3人のうちの1人だったという。ただ、夫婦には子どもが生まれなかったので、妻の姉妹の子を養子に迎えたのだろう。
これについて、駿河台大学教授の黒田基樹氏は次のように書く。「長勝は、『寛永諸家系図伝』所収浅野系図(『寛永諸家系図伝第二』二五九頁)には、『男子なき故、二人のむすめを養いて、一女は秀吉に嫁し、一女は長政に嫁す』と記されている。もう一人の養女とされているのが、養嗣子・長吉(のち長政)を迎えた、寧々の妹とみなされる屋々(長生院殿)にあたる」(『羽柴秀吉とその一族』角川選書)。
また、寧々は藤吉郎の親戚筋でもあった。藤吉郎の実母(のちの大政所)の妹婿は杉原家次といって、寧々の実母である朝日殿の弟だった(朝日殿が婿をもらったのちに生まれたと思われる)。しかし、当時の武士の結婚は親戚内で行われることが多かったので、まったく不自然ではない。

