東日本大震災に見舞われたのは初当選からわずか1カ月後。慣らし運転もなしに、いきなり最大級の試練にさらされた。ユニークな書名は、「がんばろう」「がんばれよ」を意味する岩手県の方言「がんばっぺし」を何倍にも強調した、この人ならではの表現だ。
岩手県陸前高田市は、被災地の中でもとりわけ津波被害が大きかった町である。市役所も駅舎も美しかった高田松原も、海沿いにあったものはすべてなぎ倒された。戸羽さんの妻も大津波の犠牲者の一人だ。意気をくじかれそうな惨禍の中で、それでも市長は復興の陣頭指揮をとらなければならない。
この2年、戸羽さんはがんばった。くじけずに立ち続けてこられたのは、陸前高田のために一肌脱ごうという「仲間たち」がいたからだ。いまも手厚い支援を続けている各地の若手市長たち、手弁当で経営教室を開いた有名起業家、副市長として赴任してきた辣腕官僚、英語での情報発信を買って出たアメリカ人のボランティア……。彼らとの出会いや交流を熱く、また軽妙につづったのが本書である。
といっても、黙っているだけでは仲間はできない。
震災から2カ月の東京。電力不足や原発事故の混乱が続く中、被災地支援を考える首長ら有志の会合が開かれた。時節柄、被災地から駆け付けることができたのは戸羽さんだけ。
3.11以来、同じ服で通してきたから外見はよれよれ。ネクタイとジャケットだけは人に借りたが、紙袋の中に資料を突っ込み、「こんな恰好で六本木を歩けるだろうか」と心配しながらの参加である。
「どの物資が不足しているか教えてください。応援職員が必要なら、必要なだけ派遣します」
前のめりに問いかける参加者たちに、戸羽さんは現地の惨状を説明してこう訴えた。
「みなさんにお願いがあります。1度、陸前高田市に来てください。そして、自分の目で被災地を確認し、そのなかで自分たちに何ができるかを自分たちで考えてくれませんか」
肺腑をえぐる名演説だ。3週間後、50~60人もの視察団がバスを仕立てて瓦礫と泥水だらけの陸前高田へやってきた。
戸羽さんはいま、こうして始まった交流を、復興支援にとどまらず行政手法の横展開や起業家どうしのコラボレーションに広げていきたいと考えている。
「だって、僕たちは悔しさで生きているんです。復興するときは、前よりもいい町にしたいじゃないですか」
そのためにも戸羽さん、がんばっぺし! ぺしぺしぺし!