条件は、子どもの全てを受け止めること
萬屋さんは入庁後、ほどなく児相から福祉事務所に異動となり11年間、福祉行政事務や生活保護のケースワーカーとして勤務した。40歳のときに希望がかない児相に戻ることができた。平成2年、岡崎の児童相談所で矢満田さんと同じ職場になったことで、一緒に「赤ちゃん縁組」を行うこととなった。
「児相勤務になったとき、私はまず、自分の担当地域の養護施設や乳児院で、面会のない子どもたちに会いに行きました。戸籍謄本やらを引っ張り出して調査をしました。親による引き取りの見込みがない子どもを何とかしたい。養子縁組ができないかと思っていた。そこに矢満田さんの『赤ちゃん縁組』の実践が結びついたのです」
矢満田さんが始めた「赤ちゃん縁組」は、愛知県産婦人科医会が行うものに工夫を加えていた。
時期を見て“真実告知”をするのが条件の一つ
「産婦人科医会は、県内の病院から養親希望者を受け付けて名簿を作っていた。養親の年齢基準はなく男の子、女の子の希望も受け付けていた。矢満田さんは養親希望者に注文をつけた。養親希望者は、子どもが男の子か女の子かは選べない。年齢も当時は、おおむね40歳まで。子どもの病気や障害がわかっても赤ちゃんを受け入れる、『返したい』という要望は受け付けないと誓約書を書かせた。これこそが、児相が行うケースワークなのだと思います。子どものありのまま、すべてを受け止める覚悟をしないと、親はやれないということです。子どもには自分の出自を知る権利があるので、時期を見て『産みの親が別にいる』という、“真実告知”をするのも条件の一つでした」
この条件をクリアした夫婦だけが、「愛知方式」の養親候補となった。“真実告知”とは養子となった子に時期を見て、産みの親が別にいること、自分たちと血がつながった親子ではないという「真実」を打ち明けることだ。
「“真実告知”のために、産んだ親には子どもが20歳ぐらいになったときを想定して、手紙を書いてもらう。母と子の写真も残す。これは、養親さんが保管する。そういうことまでやりました。親担当が矢満田さん、子ども担当が私。また、その逆という組み合わせの赤ちゃん縁組も結構ありました」
