種を撒いたのは、宮城県の産婦人科医
最初の種が撒かれたのは1973年、宮城県の産婦人科医である菊田昇さんによる「赤ちゃん斡旋事件」だった。
産婦人科医として中絶手術を行う中、菊田医師は望まない妊娠であっても赤ちゃんにも生きる権利があると考え、出生証明書を偽造して赤ちゃんを実子として引き渡す行為をしていたことを告白した。
菊田医師は医師法違反や公文書偽造に問われることとなったが、社会に一大センセーションを巻き起こし、「特別養子縁組」制度制定に大きな影響を与えることとなった。
「私はこの年に愛知県職員となり、児相に配属されました。だけど児相の中で、菊田医師が関わった赤ちゃんと、児相が乳児院に入れた赤ちゃんとが地続きであったことに気づいた職員は、周囲にいなかったし、全国の児相でもいなかったと思います。もちろん、新米の私も全くです」と萬屋さん。
そのような中、愛知県産婦人科医会が行動を起こす。1976年10月1日、『赤ちゃん縁組無料相談会』を全国展開したのだ。10月1日は法の日だ。
「愛知県産婦人科医会は自分たちがやれる方法として、あくまで法を順守して『赤ちゃん縁組無料相談』を行い、1997年までの21年間で1255人の赤ちゃんを全国、海外の養子を望む夫婦につないだのです。児相外の部署にいましたが、愛知県にいながら児相が関わっている赤ちゃんと地続きであることに思い至らなかった」
児相職員でも関心を持った人はいなかったのではないかと、萬屋さんは述懐する。
「愛知方式」の始まりは、一人の児相職員から
1982年、愛知県の児相職員である一人の男性が立ち上がった。矢満田篤二さんだ。
矢満田さんは現在91歳になられるが、今なお、お元気だ。中日新聞(2024年9月22日付)の取材に、矢満田さんは以下のように語っている。
1980年に児相職員となった矢満田さんは乳児院に行くたびに、見知らぬ大人に擦り寄ってくる幼児たちの姿に胸を痛めていた。特定の大人と親密な関係を築くことができなかった故の、「愛着障害」という問題を抱える子どもたちばかりだった。
この子たちの中の何人かは生まれたときから乳児院で育てられ、3歳になれば児童養護施設へ送られ、15歳、もしくは18歳で「自立しろ」と迫られる。児相は、なんと過酷な運命を子どもに与えるのか。菊田医師が社会に投げかけたものを、児童福祉司として、矢満田さんは覚悟を持って受け取った。
「赤ちゃんを乳児院に置いたままにしなくても、家庭で可愛がってもらえる方法があるじゃないか!」と、矢満田さんは愛知県県産婦人科医会の手法にならい児相で「赤ちゃん縁組」を始めた。ここが、「愛知方式」の始まりだ。
1988年、さまざまな勉強会議論、検討を経て到達したのが、「特別養子縁組」だった。民法「817条の2」が子どものための養子縁組として追加された。日本でこれまで「赤ちゃん縁組・特別養子縁組」を斡旋してきたのは民間団体だったが、矢満田さんは子どもの福祉を司る児童相談所だからこそ、その役割を担うべきだと考えていた。

