八雲の“怒り”が垣間見える

だからこそ、八雲は西田への書簡で「旅館の紹介する女中」に「もう1カ月間、朝の三時前に寝付けないほど煩わされている」と苦痛を訴えていたのだ。旅館側が「良かれ」と思って送り込んでくる女性たちが、八雲の求める「女中」ではなかったからである。

こう考えると、冨田夫妻のペン書きの部分の証言も合点がいく。太っているとか品位がないとまで、けなすのは自分たちが零落して食事にも事欠いているような、家柄だけの士族の娘によい妾の口を紹介してやるという態度だったわけである。

八雲の口から出た「士族ナイ、私ダマシマス」も、気むずかしい自分に対応できる、ある程度教養もある女性を求めているので士族の娘を、と言っているのに、また身体を差し出すような農民の娘を連れてきたのかという怒りだったのだろう。

八雲の冨田夫妻に対する怒りは相当のものだったようで、セツの手記『思ひ出の記』では、結婚後、たまたま隣家に引っ越して来た人が冨田旅館の主人と友達だったと聞いた八雲が、怒ったことが記されている。

その人はまた何心なく「はい、友達です」と答えますと、ヘルンは「あの珍しい不人情者の友達、私は好みません、さようなら、さようなら」と申しまして奥に入ってしまいます。その人は何のことやら少しも分からず、困っていましたので、私が間に入って何とか言訳いたしましたが、その時は随分困りました。
ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=『The life and letters of Lafcadio Hearn』/Flickr-no known copyright restrictions/Wikimedia Commons

その後、冨田旅館には一度も泊まっていない

ここからは、冨田夫妻に対する八雲の怒りが相当のものだったことが見て取れる。ところが後年、冨田夫妻は八雲の滞在をかなり美化して語っているのだ。

そもそも、どんなテーマでも後年になっておこなわれる関係者の証言というのは注意が必要なものだ。大抵の人は話を盛る。脳内で記憶が熟成される過程で話が美化され「自分が主人公」の物語へと改変されていくのだ。様々な過去のプロジェクトやヒット商品の話を取材すると「俺が中心で動いた」「俺が売った」みたいな話はざらにある。これも同様だ。

その点で、額面通りに受けとってそのまま書いている桑原の『松江に於ける八雲の私生活』は悪い見本のようなものだ。

いずれにしても、八雲の冨田旅館への怒りは生涯収まらなかった。熊本や東京へと移った後も、八雲は幾度か松江を訪れているが、冨田旅館には一度も泊まっていない。

(初公開日:2025年11月12日)

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